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疎開引率の教諭を追憶 広島の広瀬国民学校出身者 親らが被爆死

■記者 新田葉子

親らが被爆死 引き取り手探し奔走

 現在の広島市中区、広瀬小にあたる広瀬国民学校の出身者が3日、同学区の原爆死没者慰霊式典で顔を合わせた。話題に上ったのは、昨年10月に101歳で亡くなった元教諭玉木清さん。学童疎開で両親と離れて暮らす子どもにとって親代わりだった。そしてあの日、原爆が親を奪った子の引き取り手探しに奔走してくれた。

 広瀬国民学校の児童は8班に分かれ、志和地村(現三次市)などに疎開していた。玉木先生が引率したのは23人。被災状況を確かめるため投下から2日後に広島入りした先生は、疎開先の寺の本堂に児童を集め、家族の生死を伝えたという。

 この日集まった8人のうち、6人が父または母を亡くした。兄弟も失っている。野口和子さん(73)=西区=は「父は戦死し、原爆で母も奪われた。先生には本当にお世話になった」と話す。爆心地に近い同地区では23人のほとんどが親族の誰かを原爆で奪われた。

 寺田頼江さん(76)=中区=は「原爆で母が亡くなり、父が高熱に苦しんでいた。姉と連絡がとれるまで、先生も家族があったのに、私たちとずっといてくれた」と振り返る。

 90歳を過ぎて戦中戦後の経緯をまとめた先生は、寺田さんを通じて教え子に冊子を渡した。遺言には寺田さんらの連絡先を記し、自らの死を伝えるよう書いていたという。最後まで親のようだった。

(2010年8月4日朝刊掲載)

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