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社説・コラム

私の学び 広島市立大広島平和研究所 講師・桐谷多恵子さん 

被爆した祖母の志継ぐ

 広島と長崎の原爆被害からの復興をテーマに研究している。生まれも育ちも横浜市。この道に進んだのは、長崎で被爆した母方の祖母の存在があったからだ。

 私が生まれる前に亡くなっており、写真でしか知らない。10歳のとき、父から「おばあちゃんについて話しておきたい」と切り出され、被爆していたと初めて知った。

 爆心地から2・3キロ付近で被爆後、祖母が目の当たりにしたという光景。私が「被爆3世」だということ。世代をまたいだ放射線の健康影響は未解明だという事実―。祖母の数十年も前の体験が、わが身にのしかかってくる恐怖を覚えた。同じ境遇の子は周りにいない。多感だった少女時代、誰にも語れず過ごした。

 恐怖心を乗り越える転機となったのは、17歳の夏休み。父の提案で渋々、二つの被爆地を訪れた家族旅行だった。

 長崎の原爆資料館を訪れたときのことだ。被爆からの年数とがん発症率の関係を表したパネルの前で足を止めると、母がぽろぽろと涙を流した。「被爆した母と姉はこの統計通りの年齢で亡くなった。それが悔しい」と。

 広島と長崎から目を背けてはならない。苦しみを抱えながら語り継ぐ使命がだれにもある。迷いながら、そう考えた。家族に反対されながら被爆2世の母と結婚した父が、私に託した思いも分かってきた気がした。

 広島での大学院生時代、夢に見るほど被爆者から体験を聞き、手記を読みふけった。そこで「復興」に着目したのは、被爆者から「平和記念公園がいいものとは思えない」と心の内を明かされたのがきっかけだった。

 復興といえば、戦災前の町並みを復元させたポーランド・ワルシャワなどの例がある。だが広島は、広島平和記念都市建設法の下、かつての繁華街を公園に変貌させた。行政主導で都市計画が推し進められる中、全てを失った一人一人の生活の再建にどんな困難や格差、ひずみが生じたのか。史実を丹念に集め、長崎との比較分析をしている。来年には本にまとめたい。

 壁にぶち当たるたび、17歳の夏に父から渡された祖母の被爆体験記の一節を思い出す。「語ればきりがない出来事も、いつの間にか歴史の一ページにしか、受け取られないほど風化してしまっている。あのときの悲しさと同じぐらい悲しいと思えてしかたがない」。研究成果を世に出していく覚悟を新たにしている。(聞き手は金崎由美)

きりや・たえこ
 横浜市出身。2003年、法政大国際文化学部卒。広島市立大大学院国際学研究科で修士号、法政大大学院で博士号を取得。10年4月から現職。専門は国際文化、戦後広島・長崎市の復興史。

(2014年5月26日朝刊掲載)

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