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8・6式典参列の都道府県遺族代表 父よ、母よ… 平和への思いを胸に

 広島市中区の平和記念公園で6日営まれる原爆死没者慰霊式・平和祈念式(平和記念式典)に、各都道府県1人ずつの遺族代表が参列する。出席しない県を除き43歳から86歳までの41人が、犠牲者をしのび、平和を願って式典に臨む。それぞれに、65年前の惨状を体験した肉親への思いを聞いた。

 ≪記事の読み方≫遺族代表の名前と年齢=都道府県名。亡くなった被爆者の続柄と名前、死没年月日(西暦は下2けた)、当時の年齢、死因、遺族のひとこと。敬称略。

真田保(72)=北海道
 母イツノ、05年11月3日、96歳、腎不全
 母は爆心地から約1.5キロの天満町の自宅兼美容室で被爆。翌朝、帰ってこない姉を捜しに出て、誰のものか分からない白骨を持ち帰った。75年ごろ母と1度だけ平和記念公園を訪れたとき、「ごめんね」と悔やんだ顔が忘れられない。

町屋宗邦(43)=青森
 父良和(よしたか)、09年1月30日、82歳、腎不全
 父は原爆投下の数日後、陸軍の一員として救護活動のため、小豆島の訓練所から広島市に入ったという。遺体の腕を持つと、ずるりと肉がはがれ落ち、骨がむき出しになったと聞いた。父の生前の写真を手に式典に並び、核兵器廃絶を誓う。

三田健二郎(73)=岩手 
 父立川節夫、75年11月14日、69歳、肺がん
 日本放送協会の職員だった父は原爆投下3日後に出張先の東京から南観音町の自宅に帰った。自宅は全壊していたが、妻と子どもの無事を確認し、泣いたという。「あの惨状を思い出すのもつらい」と戦後は何も語ろうとしなかった。

岡田健子(78)=宮城
   母吉野、45年9月9日、52歳、被爆死
 爆心地から約1.5キロ南東の鶴見橋近くで建物疎開作業をしていた。熱線を浴び、背中に大やけどを負った。死を前にしても痛みや不安を一切口にせず、姉に手をついて「妹たちを頼みます」と繰り返し言い続けた母の姿が忘れられない。

渡辺チエ子(76)=秋田
   夫銀一、96年1月20日、72歳、肝硬変
 暁部隊の中隊長として、似島で被爆者の救護に当たった。住所や名前を聞き、札をつける作業がつらかったと話していた。兵士としてかかわった戦争で、罪のない市民が亡くなったことに負い目を感じたのか、ほかにはほとんど話さなかった。

高橋隆一(63)=山形
 父一蔵(かつぞう)、09年9月8日、84歳、腎臓がん
 父は原爆投下3日後、兵庫県から広島市内の電話局の応援に向かった。「目を覆わんばかりの惨状だった」と話し、混乱の中、犠牲者の遺体に十分な敬意を払えなかったと後悔もしていた。初めて広島市を訪れ、父の足跡をたどりたい。

星稔男(72)=福島
 父吉秋、09年5月8日、95歳、肺炎
 父は爆心地から約1.5キロ東の京橋付近で爆風に飛ばされた。暁部隊の任務中だった。上半身に大やけどを負い、両手のケロイドは酒を飲むと赤くなっていた。大切に保管していた水筒とベルトは父の葬儀の際、参列者に見てもらった。

茂木貞夫(76)=茨城
   父嘉勝、68年12月17日、78歳、老衰
 父は刑務官として勤めた吉島の刑務所で被爆。頭に包帯を巻き、つえを突いて近くの官舎に家族の安否を確かめに戻った。被爆後は体力が衰え、寝込みがち。父が亡くなった年齢に近づき、私も核兵器の怖さを実感し、廃絶への願いが強まる。

小島美千代(84)=群馬
   夫仙三、09年7月18日、86歳、脳出血
 夫は陸軍の兵隊として比治山にいて、休んでいた宿舎2階から落ちて足を負傷した。あまりに無残な光景を見たためか、原爆の話はほとんどしなかった。広島を訪れるのは初めて。夫の名前が納められた慰霊碑前で、長女と冥福を祈りたい。

加良谷恵美子(67)=埼玉
 母黒川ミヤコ、45年9月9日、35歳、被爆死
 母は東観音町の自宅で被爆した。1週間後に安芸太田町の実家を訪ねたとき、皮膚がただれ、黒く焦げた姿を見た祖母がおびえたという。母は血を吐き、苦しみながら死んでいったと聞いた。一瞬の出来事で親を奪われ、すごく悲しい。

中村紘(67)=千葉
   母幸子、97年6月10日、78歳、肝臓がん
 母は段原南町の自宅で被爆した。元気に暮らしていたが、がんで余命1年と言われたのに1カ月で亡くなったのは、原爆のせいではないかと思っている。母は被爆時の話はしなかったが、戦争や核兵器はいけないとよく言っていた。

仲伏幸子(70)=東京
   母福村君子、45年8月8日、31歳、被爆死
 母は加古町で被爆した。全身やけどで、西観音町の家まで足を引きずって帰り、祖父が高須の臨時収容所に運んだが治療を受けられず、2日後に亡くなった。最後まで水を欲しがったことを5歳だった私も覚えている。飲ませてあげたかった。

丸山進(70)=神奈川
 姉生代、45年8月6日、12歳、被爆死
 姉は学徒動員中、国泰寺周辺で被爆。父が捜し歩いたが、みな顔も分からないほど焼けていた。「娘と思ってくれ」と誰か分からない遺骨を渡されたと聞いた。想像を絶する。父が生前、原爆の話をしなかったのも分かる気がする。

山内悦子(81)=新潟
   父林鷹三、45年8月19日、40歳、被爆死
 父は紙屋町で建物疎開中に被爆。大やけどを負って牛田早稲田の自宅に戻り、はいずり回るほど高熱や下痢で苦しみ亡くなった。私も被爆した影響で長年体調を崩した。今も放射線への恐怖は消えない。原爆の被害は「過去」ではない。

西森淳子(56)=富山
   父浦田弘、08年1月21日、81歳、心不全
 皆実町で被爆した父は、遺体の片づけに当たったという。地獄だったと言っていた。原爆や戦争でつらい経験をした人による反戦への強い思いがあるから日本の平和が続いていると思う。犠牲者のことを心に刻み、式典に参列したい。

岡崎由紀子(69)=石川
   姉古井節子、07年7月23日、78歳、心不全
 女学生だった姉は広島市内で被爆した。比治山の自宅で被爆した母親も十数年後に亡くなった。体に紫色の斑点も出たという。私も水遊びをしていて吹き飛ばされ、顔と左脚にけがをした。式典では母の分と合わせて供養したい。

白沢いづみ(86)=山梨
   夫英寿、08年5月14日、90歳、心不全
 当時新婚5カ月。陸軍船舶司令部にいた夫は丹那町で朝礼中に被爆した。再会したのは約1週間後。救護活動に従事し、遺体を運んでいたらしく「恐ろしい」と繰り返した。私も、あのにおいを思い出す。戦争の悲劇を若い人に伝えたい。

前座明司(62)=長野
   父良明、09年11月11日、88歳、急性心不全
 父は陸軍船舶司令部にいて宇品町で被爆。30歳を過ぎて体調を崩した。その後、長野で県原爆被害者の会を設立し、被爆者支援と核兵器廃絶のため奔走した。次世代を原爆の被害に遭わせたくないと死の直前まで訴え続けていた。

亀山恵子(58)=岐阜
   父沢田胤治、09年9月10日、86歳、心不全
 父は原爆の話を避けていた。没後、遺体の浮かぶ川を船で救護に向かった悲惨な状況や核兵器廃絶の願いを記したメモが見つかった。戦争を知らない私は、もっと話を聞いておくべきだったと後悔している。式典に参列して平和を祈りたい。

川本司郎(73)=静岡
   母あさ子、76年9月6日、78歳、心筋梗塞
 母は西蟹屋町の軍需工場で被爆。市役所近くで建物疎開をしていた父は全身に大やけどを負い、8月19日に息を引き取った。戦後、1人で5人の子を育てた母は、原爆を憎んでいたはずなのに、口には出さなかった。核兵器廃絶を祈りたい。

小長谷佐喜子(82)=愛知
 夫睦夫、09年1月16日、83歳、脳梗塞
 陸軍にいた夫は、広島城近くで整列中に被爆し、左半身に大やけどを負った。虫がわいた悲惨な経験も話したが、仲間の多くが亡くなったためか「つらかった」とは絶対に言わなかった。多くの犠牲を基に今の平和があると感謝したい。

川合敏道(57)=三重
   父勝義、08年1月2日、84歳、老衰
 暁部隊にいた父は宇品で被爆した。あまり体験を語らなかったが、被爆50年に手記をつづっていた。地をはって逃げたのだという。妻の亡父も被爆者。日本を復興した先人への感謝を胸に、妻と2人で参列する。手記も読み返したい。

中山叔子(76)=福岡
   父長岡省吾、74年2月1日、71歳、血友病
 後に原爆資料館の初代館長を務めた父は7日から連日入市し、被爆瓦などを玖波の自宅に持ち帰った。私は学校でけが人を看護した。やけどで垂れ下がった皮膚をはさみで切ったことや、運動場で毎日遺体を焼いていた様子は忘れられない。

野尻久美(48)=長崎
   父古川正美、09年11月8日、86歳、肺炎
 父は長崎師範学校在学中に軍隊へ。爆心地から約1キロの基町で被爆し、背中などをやけどした。式典では自分が被爆2世であることにも向き合うことになる。高校2年の長男と参列して父のつらい体験を感じ取り、核兵器廃絶を祈りたい。

牛島明子(76)=熊本
   夫一幸、09年12月23日、84歳、肺炎
 夫は海軍に所属し、爆心地から約2キロの松原町で建物疎開作業中に被爆した。肺が弱く、ひどい貧血は原爆のせいではないかと思う。生前「原爆慰霊碑に名前が納められる。参りに来て」と言われた。子ども3人と参列し、世の平和を祈る。

小田敬子(61)=大分
   母藤原アサコ、09年3月13日、88歳、心不全
 広島駅前で被爆し、血だらけになりながら夫婦で逃げたという。傷を温泉で癒やそうと別府に新天地を求め、懸命に働いていた。多くは語らなかったけれど、8月6日が来ると「式典に参列したい」と話していた。父母の遺影を携えて訪れる。

梅北美智子(67)=鹿児島
 父兼斌(かねよし)、86年6月23日、82歳、脳軟化症
 県立広島第一高等女学校生だった姉を救護所でみとった際の惨状を、父は「悲しむから母さんには言うなよ」と私だけに語った。自分こそ悲しかったろうに。父から姉の昔話を聞かされ、「幽霊でもいいから現れて」と恋しく思ったものです。

中井千鶴子(84)=滋賀
 夫美樹、07年5月11日、84歳、肺炎
 海軍衛生兵だった夫は8月6日、爆心地付近で被爆者を救護したという。結婚後に1度だけ語ったことがあった。「犠牲者は子どもや若者も多く、気の毒だった」とつぶやいたのが忘れられない。初めての広島。代わりに手を合わせたい。

佐々木禎子(74)=京都
   夫義方、09年12月18日、73歳、肺炎
 当時9歳の夫は京都で暮らしていた。祖父母がいる広島がやられたと聞き、両親や兄弟と大須賀町の母の実家を訪ねて入市被爆した。夫はこの10年、病気がちで寝たきり。原爆の話はせず、被爆したことも親類に聞いた。夫の分も祈りたい。

中道紀子(70)=大阪
   姉倉野悦子、45年8月6日、20歳、被爆死
 姉は県産業奨励館(原爆ドーム)にあった木材会社事務員。その日の朝も「行ってくるよ」と中山村(現東区)の家を出た。8日に姉を捜して両親や兄と奨励館に行き、姉の机の下にあった骨を持ち帰った。遺品は何も残っていない。

新岡忠(79)=兵庫
   母よしみ、96年3月14日、90歳、肺がん
 母は富士見町の自宅で朝食の片付けをしていて、食器棚のガラス破片が体中に突き刺さった。父は被爆2年後にがんで死んだ。母は被爆のことを口にしなかった。思い出したくなかったのだろう。今年初めて参列する妻と平和を祈りたい。

菱田光子(55)=奈良
   父丸山正海、01年1月18日、72歳、胆のうがん
 旧陸軍幹部候補生だった父は千田小で被爆し、がれきの下敷きになった。戦後、家族にはあまり話さなかったが、小学校教員として児童には惨状を伝えていたようだ。当時を知る人が少なくなる今、父の体験を伝える責任を感じている。

野村武生(52)=和歌山
 父栄太郎、05年9月11日、87歳、直腸がん
 巡洋艦の乗組員だった父は、呉市からきのこ雲を見た。数日後、状況確認のため広島市に入ったという。被爆した人が多く倒れ、建物の鉄骨が溶け崩れていたと話してくれた。初めての広島。原爆ドームも訪れ、父の記憶をたどりたい。

石川宗雄(79)=島根
   兄喜雄、45年8月6日、19歳、被爆死
 雲南市の鉱山で働いていた兄は軍隊に入り、7月末に配属された広島市で被爆した。父が広島へ安否確認に行ったが遺骨は見つからず、灰を箱に入れて帰ってきた。毎年式典に出て、兄が体験した原爆の悲惨さを忘れないようにしている。

園田武一(68)=岡山
   母シヅエ、09年10月11日、89歳、肺炎
 母は勤務先の江波の工場で祖父と被爆した。祖父は全身にガラス片を浴びたが、母に大きなけがはなかった。父は戦死し、母は家族を食べさせるため苦労した。原爆のことはあまり語らなかった。頑張り屋だった母をしのびたい。

後由美子(64)=広島
   父卓爾、66年5月28日、45歳、心筋梗塞(こうそく)
 父は陸軍の獣医師。牛田の自宅で母と被爆した。子どもに塗る薬もなく、馬の薬を使ったと聞いた。県庁に勤めていた祖父を捜しに行くと、玄関付近で亡くなっていたという。被爆1カ月後に私を産んでくれた母とともに参列する。

岩本京子(72)=山口
   姉小笠原和子、45年8月6日、13歳、被爆死
 安田高等女学校2年だった姉は、学徒動員で出掛けたまま行方不明。観音町の自宅で被爆した母と私は、十日市町周辺で姉を捜し回った。電線が絡まり動けずにいた女性の姿が忘れられない。後日、姉のものだと受け取った髪を墓に埋めた。

円乗輝子(79)=徳島
   夫勝男、97年1月13日、69歳、肝硬変
 国鉄の運転士だった夫は広島駅で被爆し、ガラスの破片が体中にささった。逃げる途中、横川付近で列車が倒れているのを見たらしい。その列車に乗っているはずだった。ダイヤの乱れで九死に一生を得たという。孫と一緒に参列する。

中村俊行(59)=香川
   父稔、09年3月8日、82歳、細菌性肺炎
 蒸気機関士になろうと父は当時、向洋町の鉄道教習所にいた。朝食を食べようとした瞬間、背後の窓から明るい光が差したという。その後、原爆で壊れた広島駅西方のポイント切り替え作業に半日交代で従事した。私の長女と一緒に参列する。

林弘子(78)=愛媛
   夫善久、08年12月20日、80歳、膵臓(すいぞう)がん
 主人は志願兵として広島にいた。あの日は宮島からすぐ広島に戻り、20~25日ごろまで遺体の処理を続けたという。20~30年前、一緒に平和記念公園を訪れた時「死んだらここにまつってもらう。見よってくれ」と話した。見届けに行く。

野村孝子(50)=高知
   祖父野村亨、09年7月11日、98歳、大腸がん
 祖父は軍の救護活動で入市し、遺体やがれきの片づけをした。においが忘れられないとこぼしたこともあるが、ほとんど語ることなく逝った。祖母には「広島にいたと言うな」と口止めしていた。家族への差別を恐れたのかもしれない。

(2010年8月5日朝刊掲載)

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