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連載・特集

『生きて』 報道写真家 桑原史成さん <3> 村の激動期

反戦ビラ配り村長逮捕

 1947年3月、島根県木部村(現津和野町)では、村長選があった。無投票当選したのは、共産党員の木村荘重(むらしげ)。呉海兵団に所属していた木村は戦時中、水兵向けの反戦新聞「聳(そび)ゆるマスト」の編集に関わり、投獄された経験を持つ

 母方の遠い親戚だった木村村長は、笹ケ谷鉱山に勤めていた父を村の収入役に選任しました。共産党員の村長は村議会と敵対していたらしい。共産主義と縁遠かった父なら、村議会の同意を得られる。村長は「親戚ならば裏切らない」と思ったのでしょう。

 共産党村政が誕生した時、木部小の4年生でした。村のあちこちに「日本共産党木部細胞」と書かれた掲示板があったのを覚えています。細胞とは党組織の最小単位。村長は「村を集団農場にする」と言っていました。「土地を取り上げられる」とおびえる村人がいた一方で、貧しい農家は共産党になびく。マルクスやレーニン、サボタージュという言葉も、いつのまにか覚えました。

 皇国史観が崩壊した直後に広がった共産主義。新しい思想や価値観が山里で交錯した

 シベリア帰りの親類は、共産党の会合に一切、顔を出しませんでした。「史(ふみ)ちゃん、あれはひどいよ。人間の社会じゃない」と言っていました。右と左が身近にあると、かえって偏重しなくなる。党派や運動から距離を置いて、冷静に見るようになりました。今でも、反原発や護憲の運動に賛同の署名をしてくれという依頼がよくあるけれど、一切、応じません。何ものにも属さない、ニュートラルでありたいという姿勢は、報道写真家の仕事を長く続ける上で役立ったんじゃないかな。

 中学2年だった50年6月。朝鮮戦争が始まる。同年10月、村に激震が走った

 父から「村長が逮捕された」と聞きました。朝鮮戦争の反戦ビラを配った罪で、村長は裁判に掛けられました。村長は辞職。釈放時の身元引受人は父でした。レッドパージが猛威を振るった年。「赤い村」と呼ばれた木部村の共産党活動は下火になりました。

(2014年5月15日朝刊掲載)

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