×

連載・特集

『生きて』 報道写真家 桑原史成さん <6> 助走期間

筑豊撮影 土門拳に衝撃

 東京フォトスクール(現東京綜合写真専門学校)の1期生には、後に写真家人生を伴走する同い年の仲間がいました。高度経済成長期の農村を撮影した「農村電子工業」でデビューする英(はなぶさ)伸三。彼はソニーの宣伝部に勤めていました。新宿の風月堂という名曲喫茶が同期生のたまり場。明け方まで街をほっつき歩いて、深夜の盛り場や酔客のスナップを撮って批評し合ったりもしました。

 報道写真家として世に出るために、「手つかずのテーマ」を見つけ出そうと考えていた

 原爆被害をテーマにしようと考えましたが、雲の上の存在だった土門拳が1958年に「ヒロシマ」を発表していました。「ヒロシマ」は生まれて初めて買った写真集です。

 フォトスクールの卒業を半年後に控えた59年9月は、東海地方を襲った伊勢湾台風の被災地に出向きました。三重県四日市市を拠点にした1週間ほどの撮影で、卒業前のトレーニングのつもりでした。手つかずのテーマを見つけ出すことは、簡単なことではありません。

 当時は石炭から石油へのエネルギー転換のまっただ中。全国で炭坑の閉山が相次いだ。炭坑離職者の生活を支援する「黒い羽根運動」の存在を知る

 福岡県の筑豊がその現場でした。59年12月に3週間ほど、田川、飯塚、直方市を巡りました。伊勢湾台風の取材で、撮影技術は大丈夫という自信はありました。炭坑住宅での暮らしぶりにカメラを向けました。

 そこで、ある姉妹と出会う

 炭住街で遊んでいる姉妹と偶然、目が合ったんです。顔に何とも言えない哀愁がある。妙に女っぽくって、魅力的で。何回か通って20カットくらい撮りました。

 筑豊から東京に帰り、書店で雑誌「カメラ毎日」の60年2月号を手に取ると、土門拳が同じ女の子を撮っていたんです。衝撃的でした。被写体に迫るフレーミングには、無駄が一切ない。「別の角度で何枚も撮ればよかった」とも思ったけれど、力量の違いは圧倒的でした。自分が筑豊で撮った写真は長い間、お蔵入りにしました。新人が世に出るには、亜流は駄目だと痛感したからです。

(2014年5月20日朝刊掲載)

年別アーカイブ