×

連載・特集

『生きて』 報道写真家 桑原史成さん <13> 戦地に消えた仲間

スクープ追い 最前線へ

 ベトナム戦争は多くのカメラマンを戦場に引きつけた

 南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン)には多くのカメラマンが群がっていました。最も多いのは米国人。日本人とフランス人も多かった。ゲリラの掃討作戦に出くわすと、建物の柱の陰に隠れながら、盗むようにシャッターを切る。これまでの取材にはない緊張感がありました。

 1968年1月末にあったテト攻勢の数日後、米国UPI通信のカメラマンだった沢田教一さんにサイゴンのバーでおごってもらったことがあります。沢田さんは同い年。戦火を逃れる親子の写真で66年にピュリツァー賞を取った彼は、テト攻勢の最激戦地だった古都フエでの銃撃戦を取材したそうです。歴戦の名カメラマンである沢田さんでも「えらい目にあった。命からがら、戻ってきた」とため息をついていました。

 沢田は70年10月、内戦が激化していたカンボジアで取材中に銃撃され、命を落とす

 カンボジアには73年10月、米国ABCテレビの韓国人カメラマンと一緒に入国しました。首都プノンペンに、カメラマンのたまり場になっている食堂があった。そこで共同通信プノンペン支局の石山幸基支局長と飲んでいると、フリーカメラマンの一ノ瀬泰造がいました。

 一ノ瀬は寡黙な男でした。11歳年下だけど、取っつきにくい。「一ノ瀬がアンコールワットを撮りたがっている」と人づてに聞きました。アンコールワットは当時、親米政権にゲリラ戦を挑むクメール・ルージュ(ポル・ポト派)の根城でした。「密林の奥地。撮影できたら大スクープだ」と驚く一方、後に大虐殺が発覚するクメール・ルージュの残虐性は知りませんでした。

 翌日、「戦場に行こう」と仲間と一緒に車で撮影に出ました。レンズを交換している一ノ瀬を撮ったスナップがあります。当時、「戦場で姿を撮影されたカメラマンは、近く死ぬ」というジンクスがありました。シャッターを切った瞬間、「悪いことをしたな」と直感した。一ノ瀬の写真は1カットしかありません。

  一ノ瀬も、石山支局長も、間もなく取材中に消息を絶つ

(2014年5月29日朝刊掲載)

年別アーカイブ