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社説・コラム

憲法 解釈変更を問う 明治学院大国際平和研究所長・高原孝生さん

緊張緩和の姿勢欠ける

観念的な政府の国防論

 安倍晋三首相は、どうすれば集団的自衛権を行使できるかという点に執着し、国際的な緊張を緩和しようという姿勢が欠けている。行使を認めれば、専守防衛で交戦権がないという日本の従来のスタンスは明白に変わる。日本が軍事力に力点を置くと対外的に示すことになり、周辺国の軍拡派を勢いづかせるだけだ。

 敵を新たにつくるのではなく、将来世代に責任ある立場として、戦争をいかに抑えるかという発想に立つべきだ。個別的自衛権だから良いとか悪いとかというレベルでしか議論できていないのは残念だ。「個別的自衛権だから軍事力を使っていい」という思い込みが広がることを恐れる。

 専門は、国際政治学と平和学。1997年に明治学院大教授となり、ことし4月から2度目の同大国際平和研究所長を務める。主に軍縮問題などを研究してきた。

 集団的自衛権の行使は国連憲章で認められているとの主張があるが、考えを進める順番が間違っている。国連は、悲惨な世界大戦を2度も経験した反省に立ち、国際平和を維持する目的で発足した。国連憲章は戦争をいかに防ぐかという思想が前提にある。「認められているのに、なぜ使えないのか」という発想自体がおかしい。

 主権の平等を前提とする国際システムの下では、考え方として、国家には最後の手段として戦争する権利が認められてきた。しかし、核時代を迎えた今、核兵器で攻撃されれば国益なんて吹っ飛んでしまう。国民も守れない。広島、長崎への原爆投下、その後の水爆の開発によって、戦争自体をなくさなくては人類の存続が危ういことは明白だ。集団的自衛権の行使で国民を守ろうとするのは時代に逆行している。

 安全保障という概念は、核時代の中で生まれた。核兵器という防御できない攻撃に対処するためには、相手国の安全も担保しなければならない。政府や自民党が論じている軍事は、先祖返り的な古い国防論だ。「現実的」と言いながら、実は観念論で、安全保障という言葉を意図的に使い、国民をけむに巻いているようにしか見えない。

 安倍首相は、集団的自衛権をめぐる国会での議論で、戦闘地域での自衛隊による支援活動を明確には否定せず、憲法が禁じる「他国の武力行使との一体化」の制限緩和を検討する方針を表明した。

 自衛隊と米軍が共同で行動する際に、米軍側が危険な任務を担ってくれると思うのは幻想だ。自衛隊の方が危険なことをさせられる可能性がある。多国籍軍では、危険な任務は他国に押しつけようとする傾向があり、せめぎ合いになる。

 量産された兵器が世界各地に出回り、紛争で使われる事例が報じられている。国際的対処を真剣に考えるなら、多国間で協力して平和維持活動のための新しい制度的枠組みをつくらなくてはいけない。そこでの軍事力は、中長期的にみれば、より警察的な機能へと転換していくだろう。古い軍事同盟の発想の名残である集団的自衛権の行使を憲法で禁じる日本だからこそ、リーダーシップが発揮できる。(聞き手は藤村潤平)

(2014年6月7日朝刊掲載)

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