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あの日に残る思い 面影追い再訪20年余 廿日市の安原さん

■記者 林淳一郎

 65年前、原爆の炎で黒焦げになった母子を広島市中心部で見かけた。母と一番下の妹かと思ったが、その場を離れた。入市被爆した廿日市市の安原義治さん(82)は、あの日を境に母と妹の行方を知らない。「何年たっても忘れられない」。悔恨とともに巡ってきた原爆の日の6日、広島の街を歩き、家族の面影を追った。

 午前6時25分、広島市中区鉄砲町のビル街。「原爆投下翌日のこのころでした」。安原さんが歩道にひざまずいて当時を振り返る。黒焦げになった母親が幼子を抱えたまま絶命していた場所だ。

 勤め先の呉海軍工廠(しょう)で「広島爆撃」と聞き、6日夜に広島に着いた。「幾万のろうそくの炎のように街は燃えていた」

 比治山(南区)のふもとで夜を明かした。街は焼け、音もない。自宅のあった上流川町(現在の中区鉄砲町など)へ急ぎ、道すがら母子の遺体を見つける。女性の顔は、のぞき込んだだけでは分からない。迷いながら向かった自宅は焼け落ちていた。

 「お母さん」と何度も叫んだ。「さっきの母子は…」。30分ほどして戻ると、遺体はなくなっていた。

 「何でもっと確かめんかったんか」。悔やみながら市内を捜し歩いた。7日午後、ようやく12歳の妹と再会。その後、県北に学童疎開していた弟、被爆して府中市で療養していた父とも会えた。

 しかし、母と一番下の2歳の妹、建物疎開に出た姉の3人は行方が分からないままとなった。「どこかで生きとるんじゃないか」。引っ越した家でも木戸の鍵をしばらく開けたままにしていた。

 戦後、父の跡を継ぎ、市内で工具を扱う会社を営んだ。懸命に働き、原爆の記憶は50年近く封印していた。しかし60歳を迎え、仕事にゆとりもできた。「残りの人生、あの日と向き合おう」と決心する。以来20年余り、8月6日は比治山や鉄砲町を歩き、平和記念式典に参列する。

 65年となるこの日も同じ道を歩いた。式典を終えると、身元不明の遺骨約7万体が眠る原爆供養塔に向かった。「母たちに会える気がして」。頭を垂れ、手を合わせた。

(2010年8月7日朝刊掲載)

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