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社説・コラム

『記者縦横』 毒ガス 記憶と記録紡ぐ

■文化部・林淳一郎

 その量の多さに驚いた。チオジグリコール84トン、青酸ソーダ33・4トン…。旧日本陸軍の毒ガス工場があった大久野島(竹原市)で戦後間もなく、毒性のある化学物質を米進駐軍が島の近海に投棄していた可能性が浮上した。「魚が浮いた」「やけどを負った米兵も」。断片的な証言にとどまっていた敗戦直後の「空白」が、米軍文書の調査で輪郭を見せ始めた。

 「文書は膨大」。調査した広島大文書館の石田雅春助教は打ち明ける。約10年前に米国立公文書館で複写した文書は段ボール4箱分に上った。そして翻訳と分析の日々。これまで大久野島の毒ガス処理は、米軍の後を継いだ英連邦占領軍の作業が詳しく分かっていたが、その「前史」が徐々につかめてきたのだという。

 これらの米軍文書は、国立国会図書館(東京)が近年、マイクロフィルム化したものを公開している。太平洋戦争開戦から70年を経た2011年、取材で同館や旧日本軍の資料が収まる防衛省防衛研究所(同)を訪ね、大量の文書を前にへたりそうになった。と同時に、専門家の調査が及んでいない資料がまだあるのでは、という疑問も湧いた。

 来年で戦後70年。毒ガス工場で働いた人や、広島、長崎の被爆者の高齢化も進む。生の証言を聞く時間は貴重だ。戦争の被害と加害の両面を受け止め、次代にどう伝えるか。土台になるのは、当時の記憶と記録を紡ぎ合わせる取り組みだ。それは記者の役割でもあると痛切に感じている。

(2014年6月20日朝刊掲載)

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