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社説・コラム

『論』 言葉のあまりの軽さ 憲法「解釈」にも通じる

■論説主幹・江種則貴

 あまりに言葉が軽い。そして、ひどすぎる。このところ自民党の政治家から、耳を疑う発言が相次ぎ飛び出している。

 「最後は金目でしょ」。福島原発事故による汚染廃棄物の処理を担当する閣僚は、被災者の思いを逆なでした。東京都議は議場で質問する女性議員を「早く結婚した方がいい」とやじった。

 古里に帰りたくても帰れない、子どもを授かりたくてもさまざまな事情がある。そうした人たちの心情など、はなから意識にないのだろうか。それとも、除染や少子化対策など、この国の行方を左右する重いテーマから目を背けたいのか。その双方でも、どちらかでも、政治家としては失格だ。

 こうも立て続けだと、巨大与党のおごり、それもトップである安倍晋三首相の「言葉の軽さ」が伝染しているのかと疑いたくなる。

 最近では、集団的自衛権の行使容認をめぐる発言だ。先月の記者会見で首相は、憲法解釈を変更する閣議決定について「期限ありきではない」と徹底した論議を約束した。なのに気が付けば、自民、公明両党の与党協議をせっつく。

 そもそも日本国憲法は全ての国民にとって、政治家にとって、最も重い言葉のはずだ。国際情勢が変わったからといって、時の政権の都合で解釈を変えるのは姑息(こそく)ではないか。政治が言葉を大事にしないで、それでいいのか。

 憲法9条の第1項にこうある。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又(また)は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」

 与党協議はおととい、解釈変更で実質合意した。来週にも見込まれる閣議決定の文言に、集団的自衛権という言葉をあからさまには盛り込まないことを条件に、第1項を「特定の3要件がそろえば自衛の措置としての武力行使が認められる」と読み取るという。

 すなわち、集団的自衛権を行使しても、それが同盟国も含めた自衛のためであれば「国際紛争を解決する手段としては放棄する武力」ではないことにするのだ。どこをどう読めば、こんな解釈にたどり着くのだろう。

 素朴な疑問も浮かぶ。どこかの国が米国を攻撃した場合に日本が反撃すれば、その国は日本から攻められたと見なし、日本も攻撃の対象に加えると想定するのが素直だ。つまり集団的自衛権の行使は国際紛争に直結する。それを「国権の発動しない戦争」だと言い含められるのか。筋の悪い「言葉遊び」ではないか。

 確かに国連憲章51条は加盟国による集団的自衛権の行使を認めている。ただし、その条文には「安全保障理事会が国際の平和、安全の維持に必要な措置を取るまで」という期間限定が付くことを忘れてはならない。

 国連が誕生した際、世界の秩序維持の調整役として安保理が期待された表れであろう。ところが実態はどうだ。常任理事国は拒否権の発動を競い合い、紛争の平和的解決の機能は不十分と言わざるを得ない。

 集団的自衛権を行使する場面を考えるよりも、現在の国際社会は飢餓や貧困の解消、宗教や民族対立の解決、テロ防止など、地球上の平和を脅かす要因にどう立ち向かうかが試されている。その一員として日本が優先すべき政策が、平和憲法の看板を捨てることだとは、どうしても思えない。

 東アジア情勢は、座していれば平和になる状況ではない。だからといって集団的自衛権を使えるようにして軍事的抑止力を高めることでは、むしろ状況を悪くしかねない。力の均衡を志向することが危なっかしい軍拡競争を招くことは、古今東西の歴史が物語る。

 外交という「言葉と平和的態度による抑止力」、あるいは民間交流という「人間による抑止力」をおろそかにしてはいないか。首相が繰り返し口にする「積極的平和主義」も、そのバランスを欠いた訴えに聞こえる。

 日米安保条約と核抑止力の在り方、沖縄をはじめとする在日米軍基地の行く末…。日米同盟をめぐってもこの際、丁寧な言葉を尽くして議論すべきではないか。

(2014年6月26日朝刊掲載)

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