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社説・コラム

憲法 解釈変更を問う 前廿日市市長 山下三郎さん ヒロシマの思い結集を 

平和国家守る歯止めに

 平和な暮らしこそが、国民の願いだ。集団的自衛権の行使を可能にする憲法の解釈変更は、平和国家の土台を崩す。特定秘密保護法が成立し、武器輸出三原則も見直された。国が右傾化し、戦前と同じ流れを感じる。平和への努力を怠り、戦争への準備ばかりしているように私には見える。

 集団的自衛権の行使を容認すれば、日米の距離は近づくかもしれない。だが、世界に不戦を誓った日本。平和外交の先頭に立つべきなのに、戦争ができる国になろうとしている。容認すれば、世界を裏切ることになる。憲法9条が泣く。

 15歳で迎えた1945年8月6日。爆心地から約3キロ離れた学徒動員先の現在の広島市西区の工場で被爆した。55年に旧宮内村(現廿日市市)の村議に初当選。廿日市町議、市議を経て、91年から市長を4期務めた。52年間、地方自治に携わってきた。

 原爆で工場の屋根が飛び、壁が落ちた。幸いけがはなかった。工場を出ると、市中心部から逃げる何千という人たちの行列に遭遇した。皮膚が焼け、手をぶらりと下げ「助けて」「水をくれ」とうめいていた。男か女かさえも分からない。地獄だった。

 「日本は勝つ」と信じていたが、終戦にほっとする自分もいた。こんな思いはもうごめんだ。殺し合いはするべきではない。この経験から「平和あってこそのまちづくり」という信念で議員や首長を務めてきた。

 市長時代、日本非核宣言自治体協議会の副会長として2005年5月、米国ニューヨークの核拡散防止条約(NPT)再検討会議に参加。平和市長会議の会合で被爆体験を証言し「残された人生を反核平和にささげたい」と誓った。07年に市長の職を退いた後も、学校や各種団体の会合で被爆証言を続けている。

 世界各地の約130人の市長を前に、子どもたちに焼け野原ではなく、美しい地球を残したいと訴えた。スピーチを終えると、みんな総立ちで拍手を送ってくれた。一方で米国の市民と話す機会があり、「早く戦争を終結させるために原爆を落とした」という意見を多く聞いた。彼らとの壁を痛感し、残念だった。

 今、米海兵隊岩国基地(岩国市)が在日米軍の再編を経て、極東最大の基地になろうとしている。基地の増強は平和に逆行する。有事には狙われる対象になる。平時でも低空飛行訓練や米兵による犯罪など、近隣を含めた市民生活を脅かす。集団的自衛権の行使容認も含め、日本は米国にすり寄りすぎだ。

 1日にも憲法の解釈変更が閣議決定されようとしている。国の方向性を変える一大事なのに、閣議だけで決めていいはずがない。国民的な議論もなく拙速だ。閣議決定されても、国民は議論をあきらめてはいけない。一番危険なのは流されること。特に若者に平和な時代をつくる議論を交わしてほしい。

 私も求められれば、体験を伝えに出向き、その一助になりたい。わき起こる思いを結集できれば、日本のあるべき姿が見え、平和国家を守る歯止めにもなる。被爆者として広島がその議論をリードできる場であることを信じたい。(聞き手は金刺大五)

(2014年7月1日朝刊掲載)

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