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乾物店の金庫 呉空襲の証人 熱で溶けた鉄…生々しい爪痕 今も「現役」 記憶伝える

 太平洋戦争末期の1945年7月1日の呉空襲で一部焼かれ、残った金庫が、広島県呉市光町の呉乾物で今も使われている。熱で溶けた鉄の生々しい痕が、空襲の威力を伝えている。(小笠原芳)

 呉空襲があった69年前、金庫は現在の中通1丁目にあった中通市場の事務所に置いていた。横幅0・94メートル、奥行き0・82メートル、高さ1・75メートルで、重さ約1・2トン。左側面の一部が溶け、凹凸ができている。鉄にはいろいろ種類があるが、大半は1500度で溶け出すという。

 中崎誠社長(51)によると、金庫は38年の会社設立時には既に中通市場にあったという。空襲前に入れていた営業報告書や決算書などは無事だった。今も登記簿や納税書を保管し、「現役」の金庫として使っている。

 軍港市だった呉への攻撃は45年3月19日が最初で、5、6、7月までに計6回、大規模な空襲があった。市の記録では、犠牲者は1949人に上る。7月1日深夜から翌2日早朝にかけてが最も規模が大きく、市街地は壊滅的な被害を受けた。

 戦後、同社は海岸、築地町へと移転し、82年から光町に事務所を構えている。中崎社長の曽祖父、祖父、父と歴代社長は金庫を手放さなかった。4代目の中崎社長は「戦争を経験した人が高齢化し、語り継ぐ人が減っている。使い続けることで焼け跡の記憶を伝えていきたい」と話している。

(2014年7月1日朝刊掲載)

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