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性急で現実感薄い大転換 報道部長・下山克彦 集団的自衛権閣議決定

 なぜ今なのか。なぜ反対の声が届かないのか。集団的自衛権の行使容認をめぐり、疑念は消えない。戦後の安全保障政策の大転換にもかかわらず、ことの進め方は性急であり、あいまいだ。到底納得はできない。

 私たちはこの春、インタビュー連載「憲法 解釈変更を問う」を始めた。登場した各界の識者の多くは、「国民の命と暮らしを守る」と拳を振り上げる安倍政権の「熱」に違和感を唱えた。

 時の政権と憲法の間に立ってきた元内閣法制局長官はこう断じた。「行使容認は、戦力を保持しない、交戦権を認めないとする憲法9条2項の削除に等しい」と。戦争を知る自民党の元幹事長2人は現役時の立場を超え、「戦後、国際的信用を得たのは平和憲法があったからこそだ」と一致し、紛争地で活動してきた非政府組織(NGO)のリーダーは「武器を持たぬからこそ得た信頼があり、救えた命があった」と口にした。いずれも体験に基づき、肌で感じたうえでの声である。

 翻って、安保法制懇の報告書提出から今回の閣議決定までの1カ月間、国会論戦や国民への説明はどうか。現実感が薄かったと言わざるを得ない。

 安倍晋三首相が好んで使う事例に「邦人輸送中の米輸送艦の防護」があるが、そもそもあり得るだろうか。そんな「極論」を繰り出してまで導いたのが、抽象的であり歯止めが不明確な武力行使の3要件。行使容認の必要性や起きうるリスクの説明に、言葉を尽くしたとは思えない。「出来レース」とされた安保法制懇同様、結論ありきの姿勢が垣間見える。

 高揚感をにじませた首相が記者会見に臨んでいたその時、官邸前には多くの市民が詰めかけ、広島市中区の原爆ドーム前でも反対の声が上がっていた。

 小さな声かもしれない。だが、首相の言う「戦後レジーム(体制)からの脱却」といった、理念が先立つものではない。被爆の悲しみから立ち上がり、血肉としてきた声である。69年間、殺されず人を殺さずに過ごすことができた、衆知を集めた声である。

 広島だけではない。各地の議会で反対の意見書案が可決され始め、市民団体も声を強めている。そんな声にもう一度、耳を傾けてほしい。敗戦を経験した日本が目指すべきは、覇を競う「強い国」ではない。近隣に冷静にことわりを説き、協調と着地点を探る「賢い国」だろう。ならばそこに今、集団的自衛権は必要ない。

(2014年7月2日朝刊掲載)

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