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社説・コラム

社説 集団的自衛権を容認 平和主義を踏みにじる

 戦争と戦力の放棄を掲げる日本国憲法の平和主義が、大きな曲がり角に差し掛かったと言わざるを得ない。

 自衛隊が発足して60年のきのう、政府は集団的自衛権の行使を可能とする憲法解釈の変更を閣議決定した。

 わが国はこれまで、先の大戦でアジアや国内に数多くの犠牲を強いた反省から、憲法で武力行使を禁じ、戦争を放棄した。今回の閣議決定はこの精神を骨抜きにするものだ。

将来に禍根残す

 さらに、時の政権が解釈によって最高法規の内容を事実上ゆがめてしまうやり方は、極めて危険だ。

 安倍政権は今後、関連する法整備を進めるという。憲法や安全保障の在り方を議論することは当然必要だが、このまま将来に禍根を残していいものか。

 閣議決定は撤回し、議論を白紙に戻すべきである。

 閣議決定後に記者会見した安倍晋三首相は「日本に戦争を仕掛けようとするたくらみをくじく」ことにより、「戦争に巻き込まれる恐れは一層なくなる」と述べた。

 詭弁(きべん)ではなかろうか。自国だけでなく他国も守るのが集団的自衛権の行使であり、第三国の攻撃にさらされる可能性は広がる。たとえ武力行使を「他に手段がない時に限られ、必要最小限度」としても、戦争に巻き込まれる危険性は増えこそすれ、なくなるとは考えられない。

 ほかにも閣議決定の文章は随所に、曖昧さと危うさが潜む。

 その典型の一つが、新たな武力行使の要件である。国家の存立や国民の権利が根底から覆される「明白な危険」がある場合などに限られるというが、あまりに抽象的だ。いくらでも拡大解釈でき、武力行使の範囲が広がる余地が残る。

 憲法の理念に立ち返らねばならない。

 9条は1項で戦争を永久に放棄し、2項で戦力の不保持を定める。戦後の日本が一貫して平和を維持し、経済的な発展を続けてきたのは、この最高法規を国民が支持し、平和を愛する国家として国際的な信用を得てきたところが大きい。

むしろ緊張招く

 なのにここで、そのたがを外し、戦争ができる国にする。首相の言葉とは裏腹に、国民としては、周辺国との緊張が一層高まる危惧を覚えざるを得ない。

 きのうの記者会見で首相は、9条の改正そのものには触れなかった。手続きに時間がかかるため、今後しばらくは議論が沈静化するかもしれない。しかし自民党はそもそも改憲に前向きだ。これを突破口にとの声が高まる可能性も否定できない。

 確かにこの20年余り、自衛隊が置かれた状況は変容しつつある。1991年の湾岸戦争後には、ペルシャ湾での機雷掃海に参加した。2003年からのイラク戦争では復興支援などを名目に地上部隊を派遣した。

 さらに今回の閣議決定は、なし崩し的に自衛隊の変質を迫るきっかけとなり得よう。このまま集団的自衛権の行使となれば、海外で武器を携え、流血の事態に直面する場面は間違いなく増える。そうした想定が果たして、国民の共通認識となっているだろうか。

 被爆地からもっと声を上げたい。広島市の松井一実市長も「武力行使が際限なく拡大するなどの懸念が十分払拭(ふっしょく)されているとは考えにくい」と訴える。

「抑止力」に疑念

 被爆地が最も心配するのは、集団的自衛権の行使が抑止力になるという安倍首相の姿勢そのものだ。いくら非核三原則を堅持し、核兵器廃絶の先頭に立つと強弁したところで、米国の核抑止力に自国の安全保障を頼る姿勢は何ら変わっていない。

 しかも、抑止力にたのむ考えを強調すればするほど、その延長線上に自国の核武装があるのではとの疑念も膨らむ。多くの被爆者や市民が違和感を拭えないのは、その点が大きい。

 長い時間をかけて被爆者が体得したのは平和を希求する理念であり、対立より和解を求める精神だった。それを踏みにじる被爆国の振る舞いが許せない。

(2014年7月2日朝刊掲載)

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