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社説・コラム

『潮流』 漆黒の街の光明

■報道部長 下山克彦

 「VALENTINE」。ピンクのネオンサインがなまめかしい。東日本大震災で沿岸部が破壊された宮城県気仙沼市。バーの扉を押すとイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」が流れてきた。哀愁を帯びたメロディーは胸に染みた。

 先日、震災から3年たった宮城県内を巡り、ジャズバーが本業の、この店を訪れた。津波で全てが流されたが、ボランティアの手を借りて再建。泥まみれの大型スピーカーをよみがえらせ、以前と変わらぬライブを重ねている。

 ただ、変わり果てた現実もある。一歩店を出れば、眼前にあるのは漆黒の闇。そして沈黙だ。気仙沼は東日本有数の港町だった。飲み屋街に響いたであろう船員のだみ声もマダムの嬌声(きょうせい)も、今は聞こえず、広がるのは更地だけ。案内してくれた元消防長の菊田清一さん(65)は「なんも復興してねえ」と口をつぐんだ。

 地域も分断されたという。全校児童の7割に当たる74人が死亡、行方不明となった同県石巻市の大川小。適切な避難指示がなかったと、児童の遺族が市と宮城県を提訴した。指弾された側の教職員10人もまた命を落とした。多くは同じ地域の住民であり、苦汁の裁判だ。津波はコミュニティーをも壊した。

 女性職員が防災無線で最後まで避難を呼び掛けたことで知られる同県南三陸町の防災対策庁舎。非常階段の手すりに引っ掛かり助かったのが佐藤仁町長(63)だ。「制度の壁もあり住民感情もさまざまで、前に進まない。3年たてばもう少し復興すると踏んでいたのだが…」と苦しい胸の内を明かす。

 それでも手をこまねいているわけにはいかない―。皆そう口にした。あえぎながらも前へと誓っていた。われわれには何ができるのか。かつて復興の時代があった広島で、これからも考えていきたい。

(2014年7月10日朝刊掲載)

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