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米原爆報道の闇に迫る 広島のライター 繁沢さん

■記者 佐田尾信作

 太平洋戦争終結後、米国を中心とする連合国側の報道陣は自ら目撃した広島・長崎の惨状を本国でどう伝え、どう伝えなかったのか。広島市のフリーライター繁沢敦子さんが、中公新書「原爆と検閲」を書き下ろし、その闇に迫っている。

 1945年9月、被爆地入りしたジャーナリストはオーストラリア人英紙記者、ウィルフレッド・バーチェットら数人しか知られていない。しかし、実際には米の有力報道機関の記者が10人以上、戦略航空軍に従軍する「航空特派員」として同時期に派遣され、長文のルポを執筆。「第一報」とされてきたバーチェットの記事より早く掲載された例もあったが、ほとんどはスクープ扱いされなかったという。

 著者は米各紙に掲載された彼らの原稿を丹念に追うことで、その扱いについて一つの流れを発見。特に放射能の影響についての記述はたびたび編集レベルで改ざんされたり、加筆によって否定されたりしていた。

 占領下の日本では連合国軍総司令部(GHQ)が民主化を口実にしてメディアに検閲を行っていた。原爆についてもさまざまな文献が差し止められたが、こうした検閲は米国で戦前から行われていた検閲の延長線上にあったという。航空特派員らの被爆地報道が米国で「正しく」伝えられなかった背景には大きく分けて三つの要因があったと、著者は考える。

 一つは本国の報道機関で戦時中から慣行として行われていた自主検閲の影響であり、核情報の独占をもくろむ陸軍は報道機関に対し、戦後も引き続き協力を求めていた。二つ目は特派員自身の愛国心であり、戦時中の軍事検閲も相まって自国の残虐行為は伝えない力が働いた。三つ目は米国の戦後の軍備増強への思惑であり、そこには生き残りをかけた陸海空軍の駆け引きがあった。

 本書の終章は「被爆地を見た記者たちのその後」。バーチェットには生涯、ソ連のスパイという風評がつきまとい、圧力が掛けられる。著者は「最も強力な検閲官は彼ら(ジャーナリストたち)や本国の編集者一人一人の心の中に存在していた」と結んでいる。

(2010年9月4日朝刊掲載)

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