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社説・コラム

キーマンがゆく 旧被服支廠の保全を願う懇談会(広島市佐伯区)・中西巌代表(84) 

被爆の記憶語り継ぐ

平和活動へ活用策探る

 爆風でゆがんだ鉄扉が痛々しい。広島市南区の旧陸軍被服支廠(ししょう)。広島高等師範学校付属中(現広島大付属中)の4年生だった15歳の夏、ここで被爆した。あれから69年。赤れんがの建物を背に、当時の記憶を修学旅行生に語り掛ける。「亡くなった赤ちゃんを抱き続けるお母さんの姿が、いまも忘れられん」

 旧被服支廠には学徒動員で通っていた。被爆後は臨時救護所となり、運び込まれた負傷者の住所の聞き取りなどに当たった。定年退職後、「生き残った者として責任を果たしたい」と被爆証言をスタート。ことし3月、当時の同級生たちと「旧被服支廠の保全を願う懇談会」をつくった。老いた自分たちと同様、建物の老朽化は日ごとに進む。残された時間は長くはない。

 平和の祭典ひろしまフラワーフェスティバル(FF)に合わせ、平和記念公園(中区)―旧被服支廠間を巡る市民参加の「ピースウオーク」を開いた。「FFのプログラムに組み込んでもらい、国内外の若者が平和に感謝する日にしたい」と思いを語る。

 戦後、学生寮や運送会社の倉庫となった建物は1995年4月以降、使われていない。被爆70年の来夏までに歴史を記した説明板の設置を目指し、近く国や広島県、市に働き掛けて、ともに活用策を考える組織をつくりたいと考えている。

 「多くの人が亡くなったこの建物は墓標であり、声なき証言者。被爆者がいなくなっても平和活動に生かせるはずだ」と信じる。(鈴中直美)

なかにし・いわお
 1930年、広島市中区土橋町生まれ。広島大工学部を卒業後、広島県加計町(現安芸太田町)の製鉄工場や呉市の金属製品などの製造会社に勤務。99年から、原爆資料館や平和記念公園を案内する「ヒロシマピースボランティア」、2000年から広島平和文化センターの被爆体験証言者として活動する。

(2014年7月12日朝刊掲載)

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