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廣島から広島 ドームが見つめ続けた街展 広島県立美術館

■記者 道面雅量

多彩な表現 たどる文化史

 原爆ドームを軸に広島の戦前、戦後の歩みをたどる「廣島から広島 ドームが見つめ続けた街展」が、広島県立美術館(広島市中区)で開かれている。模型や写真、文献、被爆者の遺品も並ぶ多彩な展示。美術展としては異色だが、時代と向き合った画家らの内面も浮かび上がらせ、興味深い。

 3部構成、総数150点のうち、写真を除く美術作品は絵画が30点余り、工芸や現代アートが数点ずつ。担当した学芸課長の松田弘は「広島の街と文化の移り変わりを見る趣旨で、多様な資料を集めた」と話す。

西洋の思潮届く

 「広島県産業奨励館とモダン都市〝廣島〟の文化」と題した第1部は戦前のドーム、産業奨励館のにぎわいに光を当てた。1915年完成の同館で開かれたさまざまな博覧会や物産展の写真、資料が並び、高さ約3メートルの館の模型も目を引く。絵画で取り上げた作家は檜山武夫、山路商、靉光(あいみつ)、神田周三の4人。同館で開かれた美術展に出品していた縁にちなむ。

 奇妙な浮遊感のある山路の「T型定規のある静物」(1932年)は、シュールレアリスム(超現実主義)の影響がうかがえる。檜山や靉光の絵にも見られる傾向だ。「広島は同時代の西洋の思潮が届く都会だった」と松田。進取の気風が画家の内面に息づいていたとみる。街の活気を伝える資料と並ぶだけに、説得力がある。

 1941年、山路はシュールレアリスムを危険思想視した特高警察に逮捕され、釈放後、終戦を待たずに死ぬ。中国で戦病死する靉光が、召集を受ける前年に描いた「帽子をかむる自画像」(1943年)は、遠くを見据えた目が険しい。軍都広島の繁栄と切り離せない、戦争のきしみも胸に迫る。

のぞく緑に希望

 第2部「被爆」は、原爆被災がモチーフの表現を集めた。8人の絵画のほか、平和記念公園にある「原爆の子の像」を作った菊池一雄の制作時の素描、漫画や詩の原稿など。崩落した産業奨励館のバルコニーの柱、焼けた遺品の衣服も展示されている。

 ドームとその周囲を描いた福井芳郎の「ヒロシマ原爆(産業奨励館1947)」(1947年)は、茶色ばかりで彩りに乏しいが、茶一色の焼け野原こそ画家の見た現実だったのだろう。平野清の描く「塔(原爆ドーム)」(1950年)は墓標のようだ。ともに圧倒的な臨場感がある。

 船田玉樹の「広島にて」(1950~52年ごろ)は、ドームの窓枠の連なりを大胆に構成した日本画。すき間からのぞく緑が希望を感じさせる。被爆者の宮川啓五、父を原爆で失った長尾祥子ら現役画家の作品は、追憶と鎮魂の祈りがにじむ。

 第3部は「原爆ドームと戦後〝広島〟の65年」。街の復興を記録した写真、映像が約40点と多くを占める。広島市立大の画学生らが被爆者を写実した「光の肖像」も9点が並ぶ。被爆2世や3世も含め、今を生きる人々の肖像にヒロシマを探る試みだ。

 産業奨励館が建設されて1995年。断片的ながらもほぼ1世紀にわたる広島文化史をたどった展示は、広島発のさらに多彩な表現を促しているようでもある。(敬称略)

 「廣島から広島 ドームが見つめ続けた街展」は中国新聞社などの主催で20日まで。13日は休館。

(2010年9月9日朝刊掲載)

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