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社説・コラム

社会見つめる寡黙な姿 清掃員画家ガタロさん作品集 掃除道具や被爆地風景を題材 

「利己」批判 絵筆に託し30年

 広島市中区の市営基町アパート内のショッピングセンターで30年、清掃員をしながら絵を描き続けているガタロさん(64)=安佐南区。書きためた作品を「ガタロ~捨てられしものを描き続けて」(NHK出版)にまとめた。モチーフの多くは、もの言わぬ掃除道具や被爆地広島の風景。力強い筆致からは、広島・長崎の体験や、福島第1原発事故後も、変わらぬ政治や現代人への批判精神が伝わってくる。(森田裕美)

 懸命に働いてすり減ったモップや雑巾、「平和」を語る広島を黙して見つめているかのような原爆ドーム…。暗めの色彩の静物は、今にも動きだしそうだ。

 ガタロさんのアトリエはセンター内の掃除道具置き場だ。毎朝4時、自作の手押し車を携えて5時間かけて掃除をする。その後アトリエに戻って絵筆を動かす。画材はほとんど捨てられていた物。コピー用紙の裏に、ちびた鉛筆やクレヨン、絵の具を使って描く。

 物心ついたころから絵が好きだった。中学では洋画部に所属。高校では自ら美術部をつくり卒業後は大阪のデザイン会社へ。その後進学を目指すが体の不調が続き、かなわなかった。職を転々とした後、20代後半で古里広島に戻る。友人のつてで今の仕事に。投げ出したい日もあったが、黙々と働く掃除道具をいとおしく思え、「相棒」として描くようになった。

 作品集には、原爆ドームの絵も複数収める。約30年前に他界した父は被爆者だった。実家は原爆ドームにほど近い研屋町(現中区紙屋町)。仕事に出掛けた父は爆心地から900メートルの場所で一命を取り留めた。だが最期まで体験を語らず、「地球の終わり」とだけ言った。その言葉をたどるように「あの日」を想像し、スケッチをしてきた。

 掃除道具と原爆ドーム―。全く異質な題材のようだが、ガタロさんは「つながっている」と言う。

 「人間の愚かさを語っているという点で。道徳とか倫理とか、人間は偉そうなことを言ってもごみも出すし、欲のために簡単に正義を手放す。原爆だって原発だってそう。自分は汚れてもほかをきれいにする掃除道具は、人間の利己と対極にある」

 その思いを端的に伝える大作がある。1985年制作の「豚児(とんじ)の村」。ベニヤ板3枚を合わせ、下地の上にアクリル絵の具を重ねた全体的に暗い画面。中央に広島の復興のシンボルでもある平和大橋の欄干、奥には原爆ドームがある。周囲にはよだれを垂らしたりひっくり返ったりしたブタ。泣き叫ぶ子どもと亡霊のように立つ父親。背後には、汚染物質を漏らし続ける原発がたたずむ―。チェルノブイリ原発事故の前年の作品だが、まるで現代を予言していたかのようだ。

 当時、ガタロさんは父を亡くし、遺産処理に追われた後だった。経済は右肩上がり。被爆地も過去を忘れ、浮ついているように思えた。「平和の発信と言いながら根っこはみんな拝金主義というか強欲というか。絵に導かれるように描いたらこうなった」

 ただ、違和感は「むしろ今の方が大きい」。福島の事故でなお苦しんでいる人たちがいるのに、原発を輸出する。今も被爆の傷は残るのに、現政権は武力行使できるよう憲法解釈を変える。「軍備を整えるのは刃物を持ってコミュニケーションを取るようなもの。今の政治は経済のことしか見えてないでしょ」

 若いころ、影響を受けた作家がいる。自らの手法でヒロシマと向き合った殿敷侃(ただし)や四国五郎だ。自分も続かねばと思う。「私の絵は純粋な絵画ではないと言われることもある。でも芸術は自分の内面ばかりを表現しても仕方がないでしょ」とガタロさん。

 昨年テレビに取り上げられて以来、多くの人がアトリエを訪ねてくるようになった。「市民権を得た気分だけど、見向きもされないことがエネルギーにもなっていた。地に足を着けて創作を続けたい」

(2014年7月23日朝刊掲載)

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