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爆心地の旧中島本町 再現CGで記憶を継承

■記者 金崎由美

 世界中から観光客が訪れる平和記念公園(広島市中区)はかつて、人々が生活を営む市内有数の繁華街だった。そんな街を一瞬にして消し去ったのが原爆である。あれから65年。記録映画「『ヒロシマからの伝言』~原爆で失ったもの~」が完成した。往時の街並みや人々の暮らしをコンピューターグラフィックス(CG)で詳細に再現。元住民の証言映像を盛り込んで、次世代に記憶の継承を託した。

 記録映画は、産学官でつくる平和公園復元映像製作委員会(主管・ナック映像センター)が制作し、3年の歳月を費やした。舞台は、爆心地にほど近い旧中島本町とその周辺。60分のハイビジョン作品に仕上げた。

 旧中島本町は、現在の平和記念公園の原爆慰霊碑から北側の三角州に広がり、多くの住民が犠牲となった。公園内の住民慰霊碑「平和乃観音」像の傍らには、「死没者芳名」碑があり、438人の名前が刻まれている。

 映画は、生き残った住民60人からの聞き取りや、当時の写真などの情報を基に50棟の建物を再現した。この試みに賛同したカリフォルニア州立大のグループは、広島県産業奨励館(現原爆ドーム)の内部を担当した。

 制作の総指揮を執ったのは、産業奨励館があった旧猿楽町に生まれ育ち、両親と弟を原爆で失った映像制作会社社長の田辺雅章さん(72)である。

 1997年以降、旧猿楽町や南隣で爆心直下の旧細工町をCGで忠実に再現してきた。今回は、元安川を挟んで西隣にあった旧中島本町まで地域を広げた。それは、「原爆で消された街」をよみがえらせてきた取り組みの集大成にほかならない。

街のにぎわい孫に伝えたい
上田昭典さん(81)

 今の「原爆の子の像」辺りで、「つるや履物店」を営んでいた。両親が座るカウンターの背後に色とりどりの鼻緒が飾られた。芸者さんが品定めをする姿に見とれたものだ。向かい側は、現在は「レストハウス」となっている大正屋呉服店。店内で売り物の着物をかぶってかくれんぼし、ひどくしかられた。

 1945年、私は就職で旧満州(中国東北部)に渡った。店が建物強制疎開となり、家族は千田町へ移った。終戦から1年後に帰郷すると、古里は変わり果てていた。

 往時、スズラン灯が立つ中島本通りは、肩が触れ合うぐらい大勢の人が歩いていた。思い出すたび懐かしい。孫にCGを見せて「おじいちゃんが住んでいた街はにぎやかだったんよ」と伝えたい。

川面のボート 幻想的だった
福島和男さん(78) 

 実家は料亭旅館「福亀」を営んでいた。店の前に人力車が止まり、芸者さんが行き来した。座敷から広島県産業奨励館が見えるのが自慢だった。夜、元安川にちょうちんをともした貸しボートが浮かぶのが幻想的だったのを記憶している。CGで再現されたのは、そんな最も古き良き時代の姿だ。太平洋戦争が始まって徐々に活気は失われた。物資が配給制になり、生活は不自由になった。  8月6日当日、私は学徒動員で家を出ており被爆死を免れたが、祖父母、両親たち家族6人を失った。焼け野原に土を盛って平和記念公園を造成したから、地面を掘れば肉親の骨が出るはずだ。桜が咲いても公園で花見をする気にはとてもなれません。

なくした古里 感慨ひとしお
諏訪了我さん(77)

 実家の浄宝寺は、今の原爆慰霊碑の西隣にあった。本堂、庫裏、墓地などがあり、地元の人たちが集まって茶道、華道などを楽しむ文化センターのような役割も担っていた。子どもにとっては鬼ごっこやパッチン(メンコ)の遊び場だった。

 1945年4月から広島県北へ集団疎開していた私は、原爆で両親と姉を失った。40日後、広島駅に降り立ったとき目に飛び込んできたのは、一面の焼け野原。寺はがれきだけが残り、墓石までがめちゃめちゃに崩れていた。

 今、平和記念公園になった地のかつてのにぎわいと、被爆の惨状を実感するのは難しいだろう。しかし、私たちには古里。失ったからなおさら懐かしい。


「復元」生き残った者の責任 制作総指揮 田辺雅章さん(72)に聞く

 ―旧中島本町をCGで再現した理由は。 
 2007年春、米ニューヨークの国連本部で原爆ドーム周辺(旧猿楽町と細工町)のCG作品を上映した。そこで現地メディアから「爆心地の近くは、公園だから市民が犠牲にならずよかった」と言われたのがきっかけだ。

 かつては繁華街であり、生活の場であったことは案外知られていない。爆心直下で生まれ、生き残った者として、当時を記憶する人たちがいるうちに街を「復元」し、後世に残す使命を感じた。

 ―制作にあたって重視した点は。 
 今年5月、制作中の作品を30分版にして国連本部と米国内の3大学で披露した際、「生き残った人たちがどう生き抜いたのかも描いてほしい」との要望が寄せられた。この一言が訴求力のある60分作品に仕上げる参考になった。「原爆は、人々のその後の人生に何をもたらしたのか」という視点を大切にした。

 ―作品をどう生かしたいですか。 
 平和記念公園の下には、今も犠牲者の骨が累々と埋まっている。なぜここが公園となったのかを知り、原爆で失われたものを実感する教材として、世界の教育現場で生かしてほしい。年内にも英語版を完成させる。

たなべ・まさあき
 原爆ドームがある旧猿楽町生まれ。原爆で父母と弟を失った。自身は山口県高水村(現周南市)に疎開しており、家族を捜すため8月8日に入市被爆した。広島市西区在住。

(画像提供・平和公園復元映像製作委員会)

(2010年9月24日朝刊掲載)

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