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連載・特集

母とともに 動き始めた胎内被爆者 <下> 自覚 光失った戦後 語らねば 

 母の一周忌を前に、広島市安佐南区の胎内被爆者、寺田美津枝さん(68)は原爆胎内被爆者全国連絡会(仮称)への参加を決めた。「原爆のせいで、母は本当に苦労してきた。その体験を私は語ることができる」。昨年8月17日に94歳で亡くなった母、福地トメ子さんは69年前、原爆の爆風で飛び散ったガラス片が両目に刺さり、一切の光を失った。後に生まれた子の顔を見ることはなかった。

 1945年8月6日。母は、爆心地から東約2キロ、今のJR広島駅前(南区)で原爆に遭った。当時26歳。妊娠5カ月のおなかの中に、3人目の子となる次女の美津枝さんがいた。

 全盲となった母の不遇を嘆き、終戦後、祖母は「一緒に死のう」と語ったという。「臨月だった母は泣きながら拒んだそうよ」。翌年1月、美津枝さんが生まれた。

花嫁姿 手で確認

 暗闇の中での子育て。指先で美津枝さんの小さな口を探し当て、乳首をくわえさせた。かまどの火で前髪を焦がしながら、離乳食を作った。48年に三女、50年に次男を出産。夫の勝美さん=89年に78歳で死去=に支えられ、文字通り手探りで5人の子どもを育てた。

 だが、美津枝さんは「何の不自由もなく育ててもらった」と思い返す。小学校の参観日には、娘の声を聞きに必ず訪れた。運動会でも、近所の人の実況中継を頼りに声援を送ってくれた。

 娘として、心残りが一つだけある。69年11月。結婚式の日の朝、鮮やかな色打ち掛けで自宅を出る美津枝さんの前に、母がすり寄った。角隠しにそっと触れ、晴れ姿を手で確かめた。何も言わなかったが、胸中は痛いほど分かった。「私の花嫁姿を見てもらいたかったねえ」

 昨夏の母の葬儀後、美津枝さんは火葬場で、遺骨と一緒にガラス片が焼け残っていないか探してみた。母の目から光を奪った、憎らしい「被爆の痕跡」だったから。

 「けど、高温で溶けてなくなっていました」。それでいいと思った。お母さん良かったね、ようやく目が見えるね、私の顔も天国から見えとるかね―。心の中で呼び掛けると、涙があふれたという。

式典に初参列へ

 母の名が記された原爆死没者名簿が原爆慰霊碑に納められる8月6日。美津枝さんは初めて平和記念式典に参列しようかと考えている。被爆の記憶がなく、これまで大病も患わなかった。式典は、どこか遠い出来事に感じられ、仕事を理由に足を運ばなかった。

 それでも母に代わって、最も若い被爆者として、被爆証言にも関心を持ち始めた。母と娘はあの日から、一心同体に戦後を生きぬいてきた。きのこ雲の下の記憶も聞いている。「母が生きた証しを残すためにも私が語り継がんと」。69回目の夏、自分が被爆者であるとの自覚が強まっている。(和多正憲)

(2014年7月30日朝刊掲載)

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