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社説・コラム

平和維持の活動強化 岡山県原爆被爆者会会長に就任・土屋さん(笠岡)に聞く 

次代継承「70年」へ準備

 広島市に原爆が投下されて69年になる8月6日が近づく。投下後の救援作業で被爆した土屋圭示さん(86)=笠岡市富岡=は、あらためて原爆に対する怒りを強くする。7月には県原爆被爆者会の会長に就任し、来年の被爆70年に向けた活動を計画する。核兵器廃絶や平和を守る運動への決意を聞いた。(谷本和久)

 ―ことしも間もなく8月6日が来ます。
 「あの日」は忘れられない。投下時は爆心地から13キロ離れた江田島の水上特攻基地にいて、ドーンという音を聞き、白い閃光(せんこう)を見た。午後から入った広島のまちは、被害に遭われた人であふれていた。表皮がただれて歩く無言の行列や「死んでもいいから水をくれ」と求めて亡くなる多くの人を見た。学校の運動場には黒焦げの男女の遺体があった。思い出すと、今でも怒りが込み上げる。悲劇は二度と繰り返してはいけないとあらためて思う。

 ―県原爆被爆者会会長になられましたね。
 重責を感じている。選考委員会に薦められ、高齢なので迷ったが、お役に立ちたいと引き受けた。被爆者は高齢化し、語り部も減ってきている。原爆の恐ろしさを語り伝えるのは重要で、証言をビデオに残すなどしてもっと多くの人に見てもらい、核兵器廃絶の機運を高めたい。来年は被爆70年を迎える。1年前のことしから会として記念事業の準備に取り組み、次の時代につなぎたい。

 ―核兵器廃絶に個人としては今後どう取り組みますか。
 終戦後は福山に帰ったが、鼻血が出て髪の毛が抜け、体が冷えると下痢に苦しんだ。悲惨な状況も思い出したくないので当初は被爆体験を話さなかった。しかし、教員時代の1953年ごろ、中学生が広島へ研修旅行するというので初めて明かした。若い人に語り継ぐ大切さを感じた。投下直後を描いた紙芝居を作って学校などで恐ろしさを訴え、個展も開き、語り部活動に力を入れている。9年前には急性肝炎や結腸がんを患ったが、体力の続く限り、その活動をしていきたい。

 ―核兵器廃絶運動の強化には、何が必要でしょうか。
 皆が人ごとと思ってはいけない。政府は集団的自衛権の行使容認を閣議決定したが、原爆や戦争で多くの人が亡くなった日本の国民として理解できない。戦争復活への危惧となり、若い人が将来戦地に出向く恐れがある。平和維持の活動強化は、核兵器廃絶にもつながる。8月6日に笠岡市や岡山市などで原爆死没者鎮魂式や平和祈念集会、慰霊祭などを開く。ぜひ参加して、平和への思いを高めてほしい。

つちや・けいじ
 福山市蔵王町出身。17歳だった1945年に江田島の水上特攻基地から原爆投下直後のきのこ雲を見た。救護活動のため、午後に海路で広島市に入って被爆した。53年に広島大水畜産学部(現生物生産学部)を卒業後、岡山県内の公立中学に教員として勤務。現在は笠岡市非核平和都市宣言啓発実行委員長や日本カブトガニを守る会名誉会長なども務める。

(2014年8月3日朝刊掲載)

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