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社説・コラム

8月6日に寄せて  核アレルギーという人道エネルギー  吉田文彦(朝日新聞論説委員)

 核を拒絶する「核アレルギー」は、人間を人間たらんとするための、「人道エネルギー」である。ここふた月近くの核取材の旅すがら、そんな確信を強く抱くようになった。

    スタートは、6月14日。ぜひ見たい展示物があって、ミュンヘンにあるドイツ博物館に行った。

 それはまさに、実験器具というのがふさわしいような、簡素な部品と配線の組み合わせだった。今の水準からみると、失礼ながらずいぶんとお粗末な仕様。でも、幅1・5メートルほどの机に置かれたその実験器具が実は、核時代の到来を最初に証すことになった。

 1938年。ドイツ人化学者のオットー・ハーン(ノーベル化学賞受賞)らはウランへ中性子を照射すると、ウランよりも原子量の小さいバリウムができることを確認した。のちに核分裂反応と名付けられる大発見だった。そのハーンたちが使ったのが、目の前の実験器具だった。

ハーンは原爆投下を知った時、大きな衝撃を受けたという。良かれと思って進めた自分の研究が思わぬ方向に転がっていったことに痛恨の念を抱き、第2次世界大戦後は反核運動にも加わった。

 歴史的な実験器具を見ながら、デジャブーの感覚を禁じ得なかった。25年前の、あの時と同じような思いに駆られたからだ。

 1989年の夏。米国のニューヨーク州ハイドパークにあるフランクリン・D・ルーズベルト大統領記念図書館で、ある手紙の現物を見せてもらった。天才物理学者アルバート・アインシュタイン(ノーベル物理学賞受賞)が1939年に、時の米国大統領だったルーズベルトに核研究を促した手紙だった。

 大きな二重封筒に入れられた、わら半紙色の2枚のタイプ用紙。びっしり並んだ字の末尾に、小さく「A・アインシュタイン」のサインがあった。

 ナチが先に核兵器を手にすれば世界は大変なことになるとの危機感が、天才物理学者を政治的な行動に突き動かした。だが、ナチが降伏したあとも原爆開発は進み、広島、長崎に投下された。のちにアインシュタインは核研究を促したことを悔やんだ。

 その痛恨たるや、いかばかりだろうか――肉筆のサインを見つめながら抱いた、そうした思いが駆けめぐった。そしてミュンヘンで実験器具をじっと見つめた時、同じような思いに包まれた。そんなデジャブーだった。

 どれだけ優秀な頭脳でも、人類の進む先は読み切れない。だからこそ、である。核時代の創世記の巨人たちの悔恨は、この瞬間、地球で暮らす何億もの人たちに、絶え間ない問いを投げかけてくるのではないだろうか。

 果たして、核エネルギーと人類は共存できるのだろうか――と。

 核時代における、宿命とも言える、根源的な問い。これに正面から向き合った人物と今年7月8日に会った。国際司法裁判所(ICJ)裁判長をつとめたモハメド・ベジャウィさんだ。パリ近郊の自宅でゆっくり話を聞けた。インタビューの冒頭に、こんな言葉をかけてくれた。

 ちょうど、18年目の日ですね―――確かにそうだった。1996年にICJが、核兵器の使用・威嚇が国際法上、違法かどうかの勧告的意見を出したのは、7月8日だった。

 インタビューの中で、ベジャウィさんは当時の「本心」を語ってくれた。

 「世界法廷」の審議の途中、広島、長崎市長が意見陳述に立ち、被爆の実相と核の非人道性を訴えた。両市長の重い言葉を、裁判官席の中央で聴き入っていたのが、ベジャウィさんだった。「核兵器の違法化に向けて、できることは何でもやろうという思いが強まった」。あの場面をそうふり返った。

 だが、勧告的意見は、ベジャウィさんの思いにそったものにはならなかった。 核兵器の使用・威嚇は人道法などの国際法規に照らして、一般的に違法である。ただし、国家存亡に関わるような極限状況において合法か違法かの結論は見送る。 核兵器の使用・威嚇を明確に禁じる国際法がない現状では、これが精いっぱいの、できるだけ個人的信条に近づけた口上だった。

 そこでベジャウィさんは、勧告的意見の末尾に加えられた個々の裁判官の「宣言」において、「本心」をこうつづった。

 《ICJが、国際法の現状からこれ以上言えないことを、核使用・核の合法性を認める余地があるとの意味と解釈してはならない》

 《国家の存亡がかかる極限状況において、ある国が核使用したとする。その場合、核戦争がエスカレートして、人類の存亡が危機に瀕するのも事実だろう。人類の存続などへの考慮よりも、ためらうことなく国家の存続を優先するのは無謀なことだ》

 日本に帰ったあと、この「宣言」を読み返した。と同時に、ベジャウィさんのインタビューメモを何度も見直した。すると、メモに走り書きしたある言葉が急速に、しかも、とてつもなく、深みのある表現として頭の中に広がった。

 核兵器は、「悪魔の兵器なのです」。

 悪魔の持ちもの、それはすなわち、人間の世界には本来あってはならないものである。

 次は東京都内でのことだ。ベジャウィさんに会った2日後の7月10日。吉永小百合さんのインタビューに同席した。吉永さんは、「原爆詩」の朗読を通じて、反核、非核を静かに、でも力強く訴えてきた方だ。たくさん、含蓄のある言葉が心に響いたが、最も印象に残ったのは、米国の「核の傘」に依存する日本のジレンマが話題になった時のことだ。

 「『核の傘』の下に入っているにせよ、どういう形にせよ、日本人だけはずっと、未来永劫、核に対してアレルギーを持ってほしい。あれだけひどい広島、長崎の被害があったのだから。みんなそれをしっかり知って、核兵器はノーと言ってほしい。どんな状況でも」

 私には吉永さんのこの言葉が、ベジャウィさんの言葉と共鳴しあった。 

 そうか、悪魔の兵器なのだから、人間はこれを受け入れがたいと思うのがむしろ当然であり、であればこそ、被爆体験をした日本人が核アレルギーを持ち続けて、核廃絶を訴えていかなければならない。人の道を大きく踏みはずした兵器だからこそ、私たちが核アレルギーを強くもち、そのことに鈍感な人たちに説いていかなければならない――そんな思いが駆けめぐった。

 それから3週間ほどたった8月2日。長崎で、核廃絶をテーマにしたシンポジウムが開かれた。パネリストの一人だった、東京大学大学院教授の西崎文子さんが、こう語った。

 「広島・長崎の原爆体験は、その絶対的な悲惨さでもって、無条件で許せないものがこの世に存在しうるという強力なメッセージを私たちに突きつけてきます。許されない悲惨さがあることを、超えてはならない残酷さがあることを、有無を言わさぬ悪が存在することを気づかせてくれるのが原爆体験です。この悲惨さを許せば人間が人間でなくなってしまう——被爆体験が突きつけるのはそのような感覚です」

 その通りだと、膝をうちたくなるような思いだった。私たちの前にあるのは、実にストレートな問いかけである。

 核をやめますか、それとも人間をやめますか?

 答えは明らかだ。すぐにとはいかなくても、人間であり続けるために、核をやめていく他はない。そのために、人間であろうとする本能的な叫びのような核アレルギーを持ち続け、びんのフタが開いて人間世界に飛び出してしまった悪魔をびんに戻さなくてはいけない。

 そう、核アレルギーは、人間を人間たらんとするための、人道エネルギーなのである。

よしだ・ふみひこ
 朝日新聞論説委員。1980年入社。外報部、科学部、経済部記者、ワシントン特派員、ブリュッセル支局長、論説副主幹などを歴任。主な著書に「核解体」(岩波新書)、「証言 核抑止の世紀」(朝日選書)、「『人間の安全保障』戦略」(岩波書店)、「核のアメリカ トルーマンからオバマまで」(同)。編書は「核を追う」(朝日新聞社)。

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