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県職員「あの夏8・6」の記録 山県地方事務所職員の日記現存 被爆の惨状や職務…克明に 広島

 原子雲の目撃から救援で入った広島デルタの惨状などを記した広島県職員の日記が現存していた。旧山県郡5町15村を管轄する山県地方事務所総務課長だった、佐藤繁一さん(1890~1972年)が、戦時下の職務や感慨も克明に記していた。次男の元小学校長陽祐(ようすけ)さん(81)=広島市安佐南区=が保存している。(「伝えるヒロシマ」取材班)

 1945年8月6日は、本土決戦に備えた国民義勇戦闘隊を編成するため事務所があった加計町(現安芸太田町)から吉坂村(現北広島町)に向かった。

 「一大光リト共ニ大音響続イテ大爆煙アリ」。自転車で村に着いた午前11時、「広島市ガ大暴撃ヲ受ケタルコトヲ知ル」と、米軍の原爆投下を表していた。

 翌7日は新庄村(同)と原村(同)でも編成に当たっていた。8日は各町村長に「広島被害ニ対シ人心動揺ナキ様通牒(つうちょう)ス」と、知事告諭を受けた戦争遂行の業務を記す。

 壊滅した広島デルタへ救援で入ったのは11日。

 「予想外ノ大破壊 万目悉(ことごと)ク焼(け)野原」「罹災(りさい)者惨鼻ノ極(み)ナリ」「重患者目モ当テラレズ」。千人を超す犠牲者が出た県庁の業務を手伝い、妻の妹を捜して13日まで歩いたデルタの惨状をつづっている。義妹は見つけられなかった。

 14日は「新仏盆ノ仏参ヲ心カラナス」と、前年秋に台湾沖で戦死した長男とともに冥福を祈っていた。

 佐藤さんは県師範(現広島大)を卒業して教師となり、42年に山県地方事務所総務課長に就いた。戦後は加計町教委の教育長を務めた。日記は30年から亡くなる72年までが残っている。

行動と考え伝える

 「広島県史 原爆資料編」(1972年刊)の編さんに当たった宇吹暁さんの話  総力戦に組み込まれた行政職員がどう行動し、思ったのかも伝える価値ある記録だ。公的な文書はこうした部分に欠ける。家庭で眠っている日記は少なくないはず。庶民の日常を総体的に捉え、ヒロシマを歴史化する意味でも掘り起こし、分析していくべきだ。

(2014年8月4日朝刊掲載)

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