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社説・コラム

『この人』 ことしの広島市の平和宣言に被爆体験談が採用された 田中稔子さん

「平和文化」創る努力を

 あの日を語り始めて6年。平和宣言に引用されるのは、海外での証言と、出会いを重ねて得た確信だ。「大事なのは人種を超え、違いを認め合うこと。武力に頼らず、話し合いで問題を解決する『平和文化』を創る努力を怠らないこと」

 広島市生まれ。6歳の時、爆心地から2・3キロの牛田町(現東区)で登校中に被爆。腕や頭、首を焼かれ、生死の間をさまよった。やけどの激しい痛み、逃げ惑う人々の姿、遺体を焼く臭い…。今も時折、よみがえる。

 長年、娘と息子にも語らなかった。「できるだけ忘れていたかったから」。七宝焼の作家として、作品に平和への願いを込めて、心の傷を癒やしてきた。

 がんと闘った夫をみとり、2007年、寂しさを紛らわせようと非政府組織(NGO)ピースボートの船に乗ったのが転機になった。南米で出会った政府要人にこう言われたという。「被爆者のあなたが語らず、誰があの日を語るのか」。子どもたちに同じ思いをさせないためにも話そう、と決めた。

 08年に「証言の航海」で再乗船。帰国後は国内の自治体を訪ね歩き、核兵器廃絶への行動を働き掛けた。ここ4年間は9回にわたって渡米し、高校や教会で証言。11年には、国連本部で潘基文(バンキムン)事務総長に面会し、核廃絶を直接、訴えた。

 11月からまた、船で世界を巡る。「同乗者に体験を伝え、被爆70年の節目に平和のために動いてくれる人を増やしたいの」。7月、3人目の孫が生まれたばかり。「この子が大人になる頃には、核なき世界になっていてほしい」と願う。東区で暮らす。(田中美千子)

(2014年8月5日朝刊掲載)

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