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社説・コラム

アルジェリア核実験被害の現実 仏公共放送記者 ラルビ・ベンシーハ氏に聞く

 フランスは1960年代、アルジェリアのサハラ砂漠で核実験を繰り返した。現地住民やフランス軍兵士らの証言を集め、番組を制作してきた公共放送フランス3の記者、ラルビ・ベンシーハ氏(55)が、6日の平和記念式典に合わせて広島を訪れているのを機に、実態と課題について聞いた。(金崎由美)

 ―フランスが南太平洋の仏領ポリネシアに加えてアフリカでも核実験をしていたことは、日本であまり知られていません。
 アルジェリアで生まれ育った私自身、何も知らなかったのだから無理はない。フランス政府が被害の存在自体を否定し、あらゆる情報を隠してきたことが大きく影を落としている。

 ―被曝(ひばく)状況について、どんな証言を得ていますか。
 当時、若いフランス軍兵士や現地の住民らが核実験場の整備や実施作業に参加させられた。きのこ雲に突っ込んでいくように軍用機を飛ばし、大気サンプルを採取した。実験後、兵士を爆心地へ進軍させた。戦争での核使用を想定した人体実験と言っていい。

 実験で使用した機材や軍用機は、上から砂をかぶせて放置した。砂が飛んでむき出しになったのを、住民は持ち帰って家の屋根や柱に使った。爆心地でガラス化したプルトニウムを見つけ、「黒く美しい石だ」と恋人にプレゼントした人もいる。核実験をした時だけでなく、長期にわたる被曝にさらされている。

 ―現在も相当な被害がありそうです。
 現地住民はがんや白内障、先天性異常が増えたと口をそろえている。最寄りの町レガヌから40キロしか離れていない核実験場は、遊牧民も往来するエリア。なのにフランスもアルジェリアも除染をしていない。

 フランス政府は、実験時に集めた放射性物質の飛散状況や被曝に関するデータを軍事情報だとして隠し続けている。だから健康調査も疫学調査も行われていない。これを開示し、両国の被害者を救済するための情報として役立てるべきだと訴えたい。番組制作を重ねる動機でもある。

 ―2010年にフランス政府は、被害者の補償法を施行させましたね。救済は進んでいますか。
 ついに被曝兵士らの訴えが実ったとはいえ、中身は問題だらけだ。数千件の申請のうち、認定はまだ十数件という。一応はアルジェリアと仏領ポリネシアの住民も対象だが、被曝と病気の因果関係を認めさせるハードルはあまりに高い。

 ―フランスを核兵器開発に駆り立てたのは何だったのでしょう。どこに「敵国」がいたのですか。
 当時のドゴール大統領は、欧米の軍事同盟である北大西洋条約機構(NATO)にいながらも、米国や英国の「核の傘」に入らず独自の核戦力を持つ方針にこだわった。第2次世界大戦での経験から、核保有により大国と見なされることが自国の安全保障だという意識を持っていた。

 結局は深刻な核被害を生み出しただけだ。核兵器を持ったところで、戦争には勝者も敗者もない。フランスの世論も気付き始めていると感じている。

 ―今回初めて広島を訪れたそうですね。
 毎年5、6回はアルジェリアに戻り被害者と会っている。「広島と長崎についても取材して、われわれに教えてくれよ」とよく言われる。同じ核の被害者として心を寄せているのだろう。そんな時、知り合いの広島市立大広島平和研究所のロバート・ジェイコブズ准教授から誘いを受け、広島市内での研究者の会合で作品を上映することになった。被爆70年となる来年も広島を訪れ、番組制作に生かすことでサハラ砂漠の人たちの思いに応えたい。

ラルビ・ベンシーハ
 59年、フランスの植民地だったアルジェリア西部生まれ。フランス公共放送で北西部にあるレンヌ支局を担当しながら、核実験被害を扱ったドキュメンタリーを制作。5日午後0時半から広島市立大サテライトキャンパス(中区)で「アルジェリア、ドゴールと爆弾」(53分)「砂嵐」(57分)の2作品を上映。一般入場も可能だが、音声はフランス語で字幕は英語のみ。

フランスの核実験
 植民地としていたアルジェリアのサハラ砂漠で60年に始め、62年の同国の独立後も続けた。66年までにレガヌで大気圏4回、イン・エケルで地下13回の実験を実施。66~96年は南太平洋・仏領ポリネシアに実験場を移し、大気圏46回と地下147回の実験を繰り返した。

(2014年8月5日朝刊掲載)

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