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社説・コラム

8・6式典 都道府県遺族代表 託された記憶語り継ぐ

 広島市が6日、平和記念公園(中区)で営む原爆死没者慰霊式・平和祈念式(平和記念式典)に、ことしは41都道府県から被爆者の遺族代表が参列する。鳥取など6県は欠席する。最年少は27歳、最高齢は87歳。41人のうち10人が、この1年間に夫や祖母たち家族を亡くした。式典に臨む前に、託されたあの日の記憶、平和への思いを聞いた。

山谷知子(63)=北海道

 父和野勝美、13年7月18日、88歳、心不全

 父は今の南区にあった教育船舶兵団司令部に所属していた。首の後ろに熱さを感じて見上げたらきのこ雲が見え、直後に爆風で飛ばされたという。幸いけがはなく、はうようにして防空壕(ぼうくうごう)に逃げた。広島は初めてだ。父の被爆した場所を訪れたい。

藤田和矩(68)=青森

 母俊子、46年9月3日、21歳、心不全

 白島九軒町で被爆した母は、私を産んだ半年後に亡くなった。「何もしてあげられなくて悔しい」と言っていたと祖父母から聞いた。式典には4年連続で参列する。ことしも母が被爆した場所に行って花を手向けて伝えたい。おふくろの分まで生きているよ、と。

木村文治(43)=宮城

 祖母山縣百枝、13年12月21日、100歳、老衰

 祖母は子ども4人といた大須賀町の別邸で被爆した。往診に出ていた医師の祖父を3日後に亡くし、家族で必死に戦後を生きたという。母はその影響で核兵器廃絶運動に取り組み、私も母の背中を見てきた。式典には初参加。原爆資料館もしっかり見学したい。

堀義弘(59)=秋田

 父義直、13年4月29日、84歳、肺がん

 陸軍の部隊に所属していた父は忠海町におり、原爆投下の翌日に救援のため広島市内に入った。川が死体であふれていたと言っていた。晩年まで広島と長崎の式典に参列していた。私は今回が初めてとなる。原爆について学んでから広島に向かいたい。

藁科徹志(52)=山形

 父昭四郎、14年2月10日、84歳、心不全

 15歳で大竹の海兵団に入った父は、45年から海軍衛生学校の少年衛生兵になった。被災者の救護で8月7日に広島市へ入ったらしい。その時の記憶は脳裏に焼き付いていたようで、生前に手記を出版した。ただ家族には、詳しい被爆体験を直接話さなかった。

白井康之(62)=福島

 母アイ子、12年7月18日、88歳、心不全

 満州(現中国東北部)から帰国した父母は宇品町の自宅で被爆した。自宅の下敷きになり、爆風で飛び散ったガラスでけがを負った。92年に父が69歳で亡くなり、母が翌年の式典に遺族代表で参列した。今回は両親の罹災(りさい)証明を持って行き、冥福を祈りたい。

福島の放射線被害を含め、核の恐ろしさを訴えたい

木村美子(72)=茨城

 母三宅道子、85年3月20日、74歳、老衰

 親戚に当たる荒神町の常光寺に、母と3歳の私、1歳の妹が身を寄せていた。朝食中に被爆したが、母は私には体験を語らなかった。被爆者として、福島の放射線被害を含め、核の恐ろしさを訴えていきたい。今回は栃木県遺族代表の妹と一緒に参列する。

木村和子(70)=栃木

 母三宅道子、85年3月20日、74歳、老衰

 荒神町で被爆した母は、1歳の私をおぶって二葉山の広島東照宮に逃げた。途中で「水をくれ」と、何人にも足をつかまれたという話を聞いた。茨城県代表の姉と初めてそろって式典に参列する。この機会に、あの日、母と逃げた道をたどりたいと思っている。

宮原謙一(66)=群馬

 父文雄、13年11月8日、88歳、腎不全

 父は陸軍総武第二七六九五部隊に所属しており、八本松にいた。原爆投下後に広島市内に入り、遺体の対応に当たった。2人で酒を飲んだとき、体験を悲しそうに話していた。定年退職後は小学校などで熱心に証言していた。父の思いを胸に式典に臨む。

保田幸生(65)=埼玉

 父敏雄、79年2月15日、77歳、脳梗塞

 広島県水産試験所長だった父は、広島から呉に向かう電車内で被爆した。その後、埼玉県や宮城県で原爆被害者の会を結成。核兵器廃絶を強く訴えていたが、なぜか家族には体験を語りたがらなかった。父と同じく、核兵器のない平和な世界の訪れを祈りたい。

飯田幸男(55)=千葉

 父誠造、13年3月16日、87歳、肺炎

 陸軍の暁部隊に所属していた父は、宮島口で木材の陸揚げ作業中に、きのこ雲を見た。8日に被爆者を救護するため入市した。旧千葉県佐原市が発行した戦争体験記に、生存者を捜し、救護した当時の様子を書き残している。被爆地で父をしのびたい。

谷吉洋子(72)=東京

 母遠藤うめ、00年10月22日、97歳、死因不明

 舟入川口町の自宅で被爆した。母は3歳だった私の食事の世話をしていたらしいが、体験を語ることはほとんどなかった。悲惨な記憶を私に印象付けたくなかったのかもしれない。ただ原爆で亡くなった人を悼むかのように、仏壇をよく拝んでいた。

吉野桂子(78)=神奈川

 夫俊雄、12年8月11日、79歳、肝臓がん

 夫は広島高等師範学校付属中学校1年だった。学童疎開先できのこ雲を見た後、8月8日に入市したという。定年退職後、神奈川県の原爆被災者の会に入り、主に小中学校で証言活動をしていた。被爆者のために精力的に働いた夫を弔う気持ちで式典に臨む。

西山謙介(66)=新潟

 父喜代次、75年1月10日、57歳、肝臓がん

 暁部隊にいた父は、比治山の防空壕(ごう)内で被爆した。悲惨な光景を思い出してしまうせいか、当時の体験をほとんど語らなかった。私は母から被爆2世だと聞いて、原爆を意識するようになった。悲劇が繰り返されないよう願いつつ、式典に参列する。

藤田幸紀(73)=島根

 父良、45年12月18日、47歳、心臓まひ

 両親、兄、私の4人が西白島町の自宅で被爆した。学校で被爆した姉は6日後に亡くなり、三和銀行広島支店長だった父も数カ月後にけがをして急に体調が悪くなり、亡くなった。私は初めて、兄と式典に参列する。戦争や紛争がない世の中を願っている。

母は足が不自由な母親を背負って逃げた

大島忠幸(57)=岡山

 母喜代、13年7月3日、84歳、肝臓がん

 母は横川駅近くの自宅で被爆し足が不自由な母親を背負って逃げた。自宅近くの川で多くの遺体が浮き、周辺には全身にやけどを負った人も倒れていた光景を覚えていた。放射線を浴びて苦しみ続ける人がいる以上、戦争は終わっていないとよく言っていた。

前田千鶴子(70)=広島

 義姉初枝、45年8月6日、14歳、被爆死

 義姉は学徒として動員中、比治山方面で被爆したと聞いた。遺骨は見つからず、形見も残っていない。弟に当たる私の夫は生前「姉を奪った原爆はあってはならない」と話していた。亡くなった義理の両親と夫に代わり、義姉の冥福を式典で祈る。

藤本伸雄(73)=山口

 父伸一、01年3月10日、86歳、老衰

 疎開先の祇園町で、両親、私、妹が被爆した。父は生前、被爆体験を一切話さなかった。私はほとんど原爆の記憶がないが、今、岩国市原爆被害者の会の会長を務めている。会員が高齢になり、減る中、若い世代への継承は難しいが、大切だと実感している。

浪花正樹(64)=香川

 母文子、12年10月9日、89歳、心臓まひ

 母の生前、つらい体験に深くは踏み込めなかった。段原に住んでいて、比治山のおかげで助かったと聞いている。母の実家は焼けた天井の半分を修理したので、残った部分と色が違うと話していた。母の供養をするために今回、初めて式典に参加する。

吉岡稔(66)=愛媛

 父徳一、13年3月24日、90歳、老衰

 陸軍にいた父は香川県内から、がれき撤収のため広島市内に入った。当時の惨状を思い出すのがつらいと言い、家族にもあまり体験を語らなかった。私は原爆の日を身近に感じることは少なかったが、父の死を機に自分に引きつけて考えたいと参列を決めた。

門田律子(65)=高知

 父寿美男、11年1月2日、87歳、大動脈瘤(りゅう)破裂

 生前、原爆について語らなかった父は、被爆者健康手帳をいつも大切に持っていた。死後に手帳を見て体験を知った。海軍にいて広島湾で機雷の除去作業中に被爆したという。参列を機に、子どもたちと原爆の悲惨さや平和の大切さを考えていきたい。

茂住三千子(64)=富山

 母永井富美子、13年2月20日、90歳、肝臓がん

 爆心地から約2キロの白島西中町の自宅で母は被爆した。家は倒れ、屋根の下敷きになって気を失い、気が付いてからはだしで必死で逃げた。その体験を話したがらず、代わりに父から聞いた。原爆資料館に、母の遺品の原爆で壊れた置き時計を届けるつもりだ。

長谷川敏彦(71)=石川

 父繁、82年12月11日、67歳、肝臓がん

 父は原爆投下時、暁部隊の一員として似島町にいた。翌日から市内に入り、山のように積まれた遺体の対応に当たったらしい。だが家族が待つ金沢に戻ってから、父は被爆体験について決して語らなかった。父を追悼するため、似島に初めて出向く。

佐々木克己(57)=福井

 父勇、13年10月13日、88歳、脳梗塞

 体験を詳しく聞いていないが、父は兵舎にいて熱線を感じたという。多くの遺体の対応に当たり、「水を求めながら亡くなっていく人たちに、何もしてあげることができなかった」と悔やんでいた。式典後、妻と長男を連れて原爆資料館に行き、被害を学びたい。

中島辰和(79)=山梨

 父隆基、85年9月6日、76歳、脳梗塞

 中国地方軍需監理局に勤めていた父は皆実町の自宅で家族5人と被爆した。92カ所にガラス傷を負った。体調がすぐれない母に代わり、朝食を準備していた。八丁堀の職場に向かった部下が被爆したのを晩年まで悔いていた。式典には孫と臨むつもりだ。

前座明司(66)=長野

 父良明、09年11月11日、88歳、急性心不全

 暁部隊に所属していた父は、水主町で被爆した。長野県被爆者の会の会長を務め、県内の中高生に被爆体験を語っていたが、家族には話さなかった。私から進んで聞かなかったことを悔いている。現在は、父の思いをくんで同会の幹事を務めている。

馬場誠(60)=岐阜

 父一、14年3月10日、87歳、老衰

 徴兵されていた父は爆心地から約2キロの比治山の近くで被爆した。呉からトラックで物資を取りに市内へ向かう途中だった。荷台に乗っていた仲間は全員亡くなったという。父も体を壊し、心に深い傷を負った。その人生を変えた原爆の被害の実態を知りたい。

川本司郎(77)=静岡

 父貫一、45年8月19日、51歳、被爆死

 地域の代表として、広島市役所近くで建物疎開作業をしていた。私たちが見つけたときには全身焼けただれ、何もしゃべれない状態だった。家族7人、全員が被爆。父が亡くなった後も懸命に生き抜いてきた。式典では、二度と悲劇が繰り返されないよう祈りたい。

成相至子(59)=愛知

 父加藤裕啓、14年4月30日、89歳、肺炎

 暁部隊にいた父は宇品港近くの倉庫で作業中に被爆し、爆心地近くで救助活動もしたようだ。よく当時の話をしていたが、悲惨な内容で、私はしっかり向き合えなかった。今になって後悔をしている。父が残した日記などを読み、理解を深めたい。

村崎多恵子(64)=滋賀

 父章一、12年7月12日、88歳、心不全

 陸軍の連隊にいた父は、訓練先の宮島からきのこ雲を見て、救助のため広島市内に向かった。むごい光景だったのか、惨状についてあまり話さなかった。「戦争で死にかけたが助かった。大切に生きたい」と言っていた。父と一緒に参列する気持ちで臨みたい。

「やけどをした子どもに水をあげられなかった」と言っていた

青山みち子(85)=京都

 夫忠夫、13年9月5日、88歳、心不全

 夫は船舶砲兵で、爆心地から3キロの南観音町で被爆した。顔と首に軽いやけどを負い、その後に黒い雨も浴びた。原爆について多くを語らなかったが「やけどをした子どもに水をあげられなかったのがつらかった」と言っていた。平和が続くよう祈りたい。

藤広千世(70)=大阪

 兄藤田宏司、45年8月22日、14歳、被爆死

 兄は崇徳中3年だった。楠木町で建物疎開中に被爆。姉の話では、全身やけどをして裸同然で大芝町の実家に帰り、「水が飲みたい」と苦しみながら亡くなったという。自分も実家で被爆し、健康不安が続いている。式典には兄の写真を持って行きたい。

小泉雄次(77)=兵庫

 父正雄、95年3月1日、90歳、心不全

 父は広島女子高等師範学校付属山中高等女学校の教員だった。倒壊した校舎の下敷きになったが助かり、「取り残された多くの生徒が泣き叫ぶ中、何もできなかった」と悔やんでいた。約50年ぶりに広島を訪れ、初めて式典に出席する。全ての犠牲者の冥福を祈る。

梅本倫弍(58)=和歌山

 父晋司、10年1月20日、86歳、肺炎

 第二総軍司令部に所属していた父は爆心地から1・2キロの印刷所で被爆した。「思い出すのがつらい」と体験をほとんど話さなかった。約40年前に家族で広島を訪れた際、多くの人が水を求めて亡くなったと語っていた。当日は原爆資料館で、自分なりに考えたい。

畑野薫(75)=福岡

 祖母ムメ、45年10月5日、75歳、死因不明

 国泰寺の自宅で留守番中に被爆した祖母は、ひどいやけどを負った。その後は、隔離されたため姿を見ていない。祖母を捜しに入市被爆した私は、6年前に福岡市原爆被害者の会に入った。活動するにつれ、祖母に申し訳なかったという気持ちが強くなっている。

横山ツヤ(79)=長崎

 夫尚生、13年10月21日、82歳、肺炎

 爆心地から約2・5キロの皆実町の鉄工所で勤務中、夫は被爆した。おととし3ページの体験記を書き、昨年亡くなった。一緒に式典に行こうと約束していたが、果たせなかった。式典には夫の写真と体験記を持って行く。夫が過ごした場所も訪ねたい。

大場はつ子(58)=熊本

 父下田久義、13年9月17日、87歳、脳出血

 暁部隊に配属されていた父は、今の江波山公園近くで訓練中に被爆した。皮膚が焼けただれた人から水を求められる中、任務でトラックの荷台に遺体を積み込んだ。当時の様子を話した夜はうなされていた。「戦争は絶対駄目だ」と繰り返していた。

姉はまだ青いトマトの汁を飲ませると息を引き取った

太田克子(71)=大分

 姉小河澄子、45年8月6日、13歳、被爆死

 姉は市立第一高等女学校の1年生だった。学徒動員中に被爆。今の加古町付近の元安川沿いで父が見つけ、背負って連れ帰った。近くの畑になっていた、まだ青いトマトの汁を飲ませると息を引き取った。式典後は姉の足跡を自分の娘とたどろうと思っている。

熊谷裕子(62)=宮崎

 父川辺泰三、11年1月31日、91歳、心不全

 海運会社の通信長だった父は、下宿していた広島市内で被爆した。被爆体験を自分からは語らず、亡くなる10年ほど前に手記を手渡された。詳しく聞いておけばよかったと今になって思う。父の広島での体験を読み返してから式典に臨もうと思っている。

落合麿貴(27)=鹿児島

 祖父達郎、12年12月28日、86歳、心不全

 祖父から初めて被爆体験を聞いたのは20歳を過ぎてだ。陸軍の兵隊で原爆が落ちた日から広島市内に入り、遺体の埋葬をしたという。遠くを見ながら目に涙を浮かべていた表情を忘れられない。次代に語り継ぐ責任をかみしめながら、式典に臨みたい。

太田康子(87)=沖縄

 夫守福、13年8月30日、91歳、老衰

 夫は尾長町の工場で働いていた。「船越町の自宅から市内を通って出勤するのが15分遅かったら死んでいた」と繰り返していた。7日に市内に入り被爆した。戦後は苦労したが、5人の子どもを一緒に育て上げた。9人の孫と5人のひ孫に戦争の悲惨さを伝えたい。

 ≪記事の読み方≫遺族代表の名前と年齢=都道府県名。亡くなった被爆者の続柄と名前、死没年月日(西暦は下2桁)、死没時の年齢、死因。遺族のひとこと。敬称略。

(2014年8月5日朝刊掲載)

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