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平和宣言に胸の内託す 最期の水飲ませられず無念/生き残った負い目 元動員学徒2人 体験談を提供

 広島市の松井一実市長が6日の平和記念式典で読み上げる平和宣言に、元動員学徒2人の手記が盛り込まれる。下級生に最期の水を飲ませられなかった無念さ、自分だけ生き残った負い目…。被爆から69年。胸が張り裂けそうな思いを抱えたまま、またあの日が巡り来る。(加納亜弥、和多正憲)

 「一人一人にどんな未来が待っていたか。つまらない戦争がその芽を摘んだ」。本川沿いにある旧制広島二中(現観音高)の慰霊碑。千葉県船橋市の大本竜敬さん(84)は4日、碑に刻まれた後輩たちの名前を見つめ、こうべを垂れた。

 大本さんは当時、二中の3年生。爆心地から約4キロの三菱重工業広島機械製作所(現西区)で「ピカ」を見た。帰宅の命令に従い、工場から2キロ離れた寄宿舎へ。そこで、爆心地近くでの建物疎開作業から戻った1年生3、4人と出会った。顔はやけどで大きく腫れ、大きな水膨れがいくつもあった。少年たちは「ただいま帰りました」と敬礼すると倒れ込み、「上級生さん水をください」と繰り返したという。

 重傷者に水を飲ませると死ぬ、と言われていた当時。大本さんは心を鬼にした。「無慈悲なことをした。あの悲痛な声は生涯耳から離れない」。せめてもの罪滅ぼしにと、思いをつづり、この夏、市の体験談の公募に応じた。「平和な日本が今、曲がり角にある。戦争を二度と起こさないために役に立ちたくて」

 もう1人の学徒は、同級生約400人の中でただ一人生き残った広島市佐伯区の三浦幹雄さん(81)。山陽工業学校(現山陽高)の1年生だった。「私は、ボタンに命を救われたんです」

 爆心地から約1キロの雑魚場町で建物疎開作業に当たる直前だった。制服のボタンが外れかけているのに気づき、針と糸を手に近くの防空壕(ごう)へ。閃光(せんこう)はその瞬間だった。意識が戻り外に出ると、焼け野原に級友の姿はなかったという。

 「自分だけが生き残って申し訳ない」。三浦さんは今でもその呪縛から逃れられない。原爆の後障害で白内障を患い、歩くにはつえが欠かせない。それでも生かされた被爆者の役目として、体験を語り継ぐ。「私以外に級友の最期を知る人はいないから」

(2014年8月5日朝刊掲載)

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