被爆2ヵ月後の自身の調査票と対面 広島の松原さん69年ぶり
14年8月5日
1945年10月29日 全身の30%やけど
ヒロシマの証言者の先駆けの一人、松原美代子さん(81)=広島市南区=が、1945年10月29日に受診していた自らの被爆記録と69年ぶりに対面した。東京帝大医学部の都築正男教授が残した約2千枚の被爆者調査票にあった。所蔵する広島市公文書館で4日、特別閲覧を申請。「生き抜いたからこそ確認できた」と記録に見入り、市の「被爆体験伝承者」らに活用を願った。(「伝えるヒロシマ」取材班)
1人暮らしで退院間もない松原さんは、一昨年からスタートした「伝承者」に応じて彼女の半生を聞き取っている伊藤正雄さん(73)=同市佐伯区=に付き添われ、同館を訪ねた。
「両足も焼かれ、歩けなかったころ。お父さんたちに担架で運ばれて行ったと思う」と、記述内容を追った。受診所は「大河」。当時の住まいに近く、直後から救護施設が設けられた大河国民学校(現南区の大河小)で受けていた。
45年8月6日、広島女子商1年だった松原さんは、動員された鶴見橋西詰め一帯(現中区)の建物疎開作業中に被爆した。爆心地の約1・5キロ。作業に出た同校1、2年生の329人が死去したとされている。
「原子爆弾災害調査事項」と印刷された紙には、表裏で調査項目は17に及び、ドイツ語や英語でも記載がある。松原さんの熱傷は中程度の「Ⅱ」。それでも全身の30%をやけどしたことが読み取れる。
急性放射線障害の「脱毛」「倦怠(けんたい)等」に陥った一方、治療は「油 軟こう」を塗るにとどまっていたことも記載されていた。
ケロイドが消えなかった松原さんは52年、現在の大阪市立大で植皮手術を受けた。「原爆乙女」と呼ばれた女性たちが傷を隠さず、声を上げたことから被爆者援護の機運が高まる。57年の原爆医療法施行につながった。
松原さんは、市の特別名誉市民となるバーバラ・レイノルズさんが実現させた62年と64年の「平和巡礼」を担い、欧米とソ連で被爆の実態と核兵器の禁止を訴えた。広島平和文化センター勤務時と退職後も、国内外で証言を務めてきたが、近年は体調が優れない。
「何としても生きたい。調査票を見て直後の思いがよみがえった。私たちのような苦しくつらい体験を、誰にもさせたくない。その強い気持ちで伝承者には語り継いでほしい」と求める。
伊藤さんは兄と姉が原爆死した。「幼かったので被爆の記憶はあまりないが、松原さんがどう生きたのかもきちんと伝えたい」と誓う。松原さんと伝承者たちは7日、インターネットを通じて三重県四日市市の児童に語り掛ける。
直後の症状や治療浮き彫り
「都築資料」を調べ、松原さんの記録を見つけた広島大病院広報調査担当役の山内雅弥さんの話 「原子爆弾災害調査事項」は、被爆の実態を日本側の医師たちが最も早く記録した貴重な資料だ。直後の症状や治療がどうだったのか、今も知られていない部分が浮かび上がってくる。被爆者が高齢化するなか、本人の証言を聞き取り、基本情報をデータベース化するなどの活用が求められる。
(2014年8月5日朝刊掲載)