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「あの日」母のおなかに 伝え聞いた記憶 継承 呉の渡辺さん「助かったのは奇跡」 胎内被爆者連絡会が発足

 原爆胎内被爆者全国連絡会の結成に5日参加した呉市本町の渡辺静枝さん(68)はあの時、臨月の母のおなかにいた。爆心地から約1・5キロ。今の広島市西区の横川駅で倒壊した駅舎の下敷きになったが、母子とも奇跡的に助かった。「生かされた命。少しでも犠牲者の供養になるなら」。母から伝え聞いた記憶はわずか。それでも継承のため、平和を守るため、小さな一歩を踏み出した。

 渡辺さんの母、玉井ミツ江さんは1945年8月6日、4歳の長女、2歳の次女と一緒に被爆した。身動きができず、火の手が迫り来る中、偶然、消防団に救出されたという。「母はいつも、助かったのは奇跡と話していた」

 市職員だった父利夫さん=当時(32)=は行方不明のまま、遺骨も見つかっていない。一家の大黒柱を奪われた母は、女手一つで3人を育て上げ、16年前に87歳で亡くなった。

 もう忘れた―。被爆の惨状を知るはずの母と姉は、当時の状況を尋ねられるとそう語り、口をつぐんだという。だが、静枝さんは知っている。母が娘の病気に神経質なまでに気を使い、放射線の影響を気にしていたこと。姉が幼いころ、風邪で高熱が出るたび「天井が燃えとる」とうなされていたこと。「きっと、それぞれ原爆の記憶にふたをして生きてきたんでしょう」

 静枝さんに、あの日の記憶はない。これまで、平和活動に参加したこともなかった。それでも、被爆体験を語る人が少なくなる中、動きだしたいと思い始めていた。再び軍靴の足音が聞こえてくるかのような「今の時代の空気」に不安があるから。

 「若い人は戦争の怖さを知らない。だから集団的自衛権の行使を容認するような動きにも無関心でいられる。少しでも原爆被害の恐ろしさを伝えていきたい」(和多正憲)

(2014年8月6日朝刊掲載)

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