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兄と姉 被爆時の遺品 私は会えなかった 母は忘れなかった 広島の浜田さん 資料館に寄贈へ

 きょう「8月6日」、広島市安佐北区狩留家町に住む浜田良子さん(64)は、原爆死した兄と姉を、癒やされぬ悲しみを抱え続けた母を悼みながら祈る。平和を願う。「あの日」身に着けていた兄の衣服や腕時計、姉の手作り毛糸人形を保存してきた母の思いも込め、広島市の原爆資料館へ寄贈することを決めた。(「伝えるヒロシマ」取材班)

 1945年8月6日朝、兄才(はじめ)さん=当時(17)=は小町(現中区)の中国配電(同中国電力)本社に出勤。姉満子さん=同(13)=は広島女子商1年で、鶴見橋西詰め一帯(同中区)の建物疎開作業に動員された。

 両親は狩留家村から捜しに入った。才さんは「見た目に傷はなく自力で帰宅したそうです」と、母から聞いた家族の被爆をたどる。

 満子さんは全身やけどを負って二葉山(同東区)で倒れているところを両親が見つけ、連れ帰った。往診した医師も、赤チンを塗るくらいしかできず、見舞客の顔つきから状況を察し、「私が死んだらお母ちゃんを見る人がおらんくなる」と語り掛けたという。

 19日、満子さんと才さんは相次いで逝った。

 その4年後に良子さんは生を授かった。父良一さんは50歳、母ミヨノさんは43歳の出産であった。

 物心がつくと、母は朝晩の読経を欠かさず、被爆時に身に着けていた2人の遺品の包みを開くと涙した。「おいしいものは食べさせてやれんかった」―。才さんと満子さんの死を絶えず悔やんだ。

 ミヨノさんは「生きていくのぞみもなくなりました」と被爆50年、旧厚生省が被爆者実態調査で募った体験記で子どもの原爆死をそう表した。2003年に98歳で他界する直前も、「待っとってね。もうちょっとで行かしてもらうけんね」と病院のベッドでつぶやいたという。

 良子さんは「一人娘として大事にされましたが、2人が生きていたら、私もどんなに心強かったか…」と言う。自身の結婚や子ども3人の出産と、節目ごとに会うことのなかった兄や姉の遺影にも報告してきた。

 家族の原爆を人前で語ったことはなかった。しかし、「私が語らなければ兄と姉の無念さ、母の悲しみを握りつぶしてしまう気がして。あの日起きたことを知ってほしい」と考えるようになった。遺品を資料館に託すのは母の願いでもあると思うからだ。

(2014年8月6日朝刊掲載)

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