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社説・コラム

『論』 大量破壊兵器の100年 科学の暴走にどう歯止め

■論説委員・岩崎誠

 そっと手を合わせて69年前のことを思う。広島湾に浮かぶ似島の「慰霊の広場」を訪ねた。10年前に原爆犠牲者の85体が掘り出された跡地を、住民たちで花畑にした場所である。

 かつて陸軍の検疫所があり、1万人ともいわれる被爆者が運ばれて多くが亡くなった。ことしも島内で新たな遺品などが見つかっている。核の悲惨さを今なお鮮明に浮かび上がらせる。

 島に残る遺構を歩いて、もう一つの歴史も思い返した。7月で開戦から100年を迎えた第1次世界大戦である。

 中国・青島などから日本軍が連行したドイツ人捕虜の収容所が、3年置かれた。菓子職人の捕虜が日本初のバウムクーヘンを焼いたり、広島の生徒たちとサッカーで交流したり。同じく戦争の一断面でありながら、その頃は牧歌的だったと伝わる。

 二十数年後の第2次世界大戦の終わりに、島が直面した絶望的な惨状との落差は何なのか。

 戦争を繰り返すたび命の重さを感じなくなる―。愚かな流れは今に至るまで途切れない。100年を振り返り、未来への警鐘にしたい。特に第1次大戦から登場した大量破壊兵器の歴史をあらためて検証すべきだ。

 欧州ではこの大戦を見詰め直す動きが盛んだ。サラエボ事件というテロが、推定で死者1千万人以上という世界規模の総力戦へ拡大した教訓から、信頼醸成の大切さが専ら語られる。

 しかし戦争そのものの姿が、大きく変質していった事実からも目を背けてはならない。欧州で進歩を遂げていた科学技術が注ぎ込まれたからだ。

 象徴が「毒ガスの父」とも呼ばれるドイツのノーベル化学賞受賞者ハーバーだろう。戦場の毒物使用を禁止する国際条約があったにもかかわらず化学兵器を本格使用し、大量破壊兵器の幕を開けてしまう。開戦翌年の1915年にベルギーのイーペルで使われた塩素ガスは5千人もの死者を出したとされる。

 加えて航空機による攻撃も始まった。勝つためなら何でも許され、民間人を巻き込んだ大量殺りくを是とする空気が生まれたといえよう。第2次大戦における戦略爆撃や原爆投下につながる思想にほかならない。

 さらにいえば、後にハーバーの弟子を通じてドイツの化学兵器技術が日本に移転し、竹原市の大久野島での毒ガス生産に直結したことも見過ごせない。

 2度の大戦を通じて科学技術はなぜ暴走したのか。常石敬一さん(70)を神奈川県の自宅に訪ねた。毒ガス開発や日本の細菌戦部隊「731部隊」の実像、原爆や核エネルギーに至るまで厳しく検証を重ねてきた科学史研究の第一人者である。  仮にサラエボ事件が起きなかったとしたら、化学兵器や核兵器は生まれていただろうか。そんな疑問をぶつけてみた。

 毒ガスの方は大戦がなくてもおそらく使われただろう。そんな冷静な見方をする。塩素ガスに窒息性のホスゲン、びらん性のイペリットと、戦場に放たれた多くは戦争前から有毒物質として知られていたからだ。

 しかし原爆は違うという。

 同じくノーベル賞を受けたドイツの化学者ハーンが、全くの偶然で核分裂に成功したのは1938年のことだ。くしくも第1次大戦に従軍し、毒ガス戦を指揮した元将校でもあった。

 科学的な好奇心からにすぎなかった発見は、各国の研究者を興奮のるつぼに巻き込む。しかし第2次大戦の開戦と拡大とともに核爆弾に生かす発想が生まれてしまう。ヒトラーが先に持つのではとの恐怖にかられ、そこに膨大な国家予算とエネルギーを投じたのが米国だった。

 ただ核の軍事利用がどんな結末を招くかは早い段階で科学者側から予測されていた。「もし戦争がなければ立ち止まり、手にした核分裂のエネルギーを何に使うべきかを話し合うモラトリアム(猶予期間)が始まっていたはずだ」と常石さん。爆弾でお湯を沸かすようなものだとして「こんな効率の悪いもので電気を起こすのはやめよう」とすら結論付けられたかもしれない、と考えている。

 いま人類は大量破壊兵器の後始末に追われている。生物兵器と化学兵器の禁止条約はあるが核兵器はこれからだ。いまだ抑止力を信じ、新たに手にしようという国もある。過去のものになったはずの化学兵器にしてもシリアは堂々と使った。

 そうした中では新たな非人道兵器が生まれないかも心配になる。地球温暖化で食糧や水の入手が困難となり、紛争リスクが増えることを国連も指摘する。容易に想像できるのは、手を汚さずに相手を平気で殺せる無人機やロボットの兵器化がエスカレートしていくことだろう。

 この分野は軍事と民間の境目が特にあいまいになっている。ただ民生用ロボットで先端開発を続ける研究者から心強い話を聞いたことがある。「米軍事筋からのオファーもあったが、きっぱり断った。ロボットは世のため人のためだから」と。

 かつて核分裂を前にした科学者の姿に思いをはせたい。将来にわたる自分の行動の影響を見据え、冷静な判断力を働かせることができるか。それこそが良心であり、時代は変われど歯止めになり続けるはずだ。

 広島の原爆資料館に「人影の石」がある。もとは物理学を志した常石さんが半世紀前の学生時代に見て衝撃を受け、「戦争と科学」の研究に転じる原点となったという。科学には何より大切な原爆の教訓がきちんと伝えられていないのでは、と。

 石の影は、長い歳月を経て薄らいでいる。しかし同じ危機感を今からでも被爆地から、粘り強く広げたい。もちろん科学者だけの問題ではない。

≪大量破壊兵器の歴史≫

1914年 サラエボ事件を契機に第1次世界大戦始まる
  15年 独がベルギー・イーペルで塩素ガス大量使用
  25年 ジュネーブ議定書で毒ガスの使用を禁止
  29年 大久野島に陸軍毒ガス工場が開所、製造開始
  36年 中国東北部に「731部隊」が置かれる
  37年 日中戦争始まる。毒ガス使用も本格化
  38年 独のハーンが実験で核分裂を発見
  39年 独のポーランド侵攻で第2次世界大戦始まる
  41年 真珠湾攻撃、太平洋戦争始まる
  42年 フェルミが米で核分裂連鎖反応の実験成功
  45年 広島・長崎に原爆投下、第2次世界大戦終結
  49年 ソ連が原爆実験
  54年 第五福竜丸事件
  75年 生物兵器禁止条約が発効する
  97年 化学兵器禁止条約が発効する
  98年 印パが核実験
2006年 北朝鮮が核実験
  13年 シリアの化学兵器使用が確認される

(2014年8月7日朝刊掲載)

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