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中3 被爆親族思い68キロ 「何倍もつらかったと思う」 「歩こう広島まで」参加 島根県邑南の森口君

 邑南町矢上の石見中3年森口真宙(まひろ)君(14)が4、5日、原爆直後に広島市から町へ逃れた人の道のりを逆にたどる「歩こう広島まで」に初めて加わった。市内で被爆して傷を負いながら町へ帰った曽祖母の妹、笠岡静枝さん=2007年、白血病のため78歳で死去=の思いをかみしめ、夕立と足の痛みを乗り越えて68キロを歩き切った。

 5日午前8時すぎ、小雨の中、中区の平和記念公園に到着。ほかの参加者62人と町内のお年寄りが折った千羽鶴を原爆の子の像に供えた。「足のまめがつぶれたり、雨が降ったりしたけど、被爆者は何倍もつらかったと思う」と振り返った。

 笠岡さんは1945年、広島電鉄(同区)の市内バスで車掌をしていた。舟入地区の車庫でバスを洗っていた時に被爆。体中にやけどを負い西へ逃れた。広島実践高等女学校(西区、現鈴峯女子中・高)で手当てを受けたが、8月9日に徒歩やバスなどで邑南町へ帰ることになった。

 広電から知らせを受けた同町の姉秋田セツヨさん(91)が北広島町へ迎えに行き再会、連れて帰った。「心配で心配で。生きていて本当に良かった」

 笠岡さんは終戦直後に体調を崩したが回復。亡くなるまで次女の営む町内のスナック兼下宿屋で働き続けた。

 森口君は小学校時代から秋田さんに笠岡さんの話を聞かされていた。中学3年の夏、バスケットボール部引退を機に「歩こう」に同級生と応募。「前から気になっていた。被爆者の思いを知りたかった」という。

 原爆ドームが見えた時、こみ上げるものがあったという。「深夜は特にきつかったが、被爆した肉親を思って絶対にリタイアしたくないと歩いた。平和の尊さを次に伝えたい」(黒田健太郎、加茂孝之)

(2014年8月7日朝刊掲載)

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