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被爆69年で伝える決意 健在の市女元教諭・一場さん

 心に、体に傷を負った被爆者たちが6日、広島市内でそれぞれの体験を語った。69年の歳月は、遠い記憶を薄れさせる。いまこそ、伝え始めたい、語り継ぐとの覚悟から。核兵器廃絶と世界平和を願う「原点」の言葉が被爆地に満ちた。

「戦争はいけん」教え子の分まで

 原爆投下で、広島市内の学校では最多の動員学徒が犠牲となった市立第一高等女学校(市女、現舟入高)。平和記念公園そばであった慰霊式に、一場不二枝さん(92)=中区=の姿があった。市女の元教諭。同僚が亡くなった今となっては、当時を知るただひとりの「先生」とされる。「命ある限り教え子の供養を続ける」と手を合わせる。

 市女は当時、動員学徒の生徒や教職員計676人が被爆死した。慰霊式では、遺族や在校生たち約300人に交ざって一場さんも列に並び、慰霊碑に花を手向けた。

 一場さんは同校を卒業後、1945年6月から専攻科に配属。23歳の新米教諭だったが、西観音町の工場に動員された生徒約45人を引率した。「先生だけど授業はない。生徒が休みなしに働く『学校工場』の監督だった」と振り返る。

 2カ月後の8月6日朝。工場に向かう途中、一場さんは横川駅(現西区)そばで被爆し、一命を取り留めた。当時、妊娠8カ月だった身重の体を案じ、お産場所を探して県内を転々としたという。だが、10月に生まれた長男はわずか1カ月で死亡。12月に学校へ戻り、初めて多くの生徒の犠牲を知り、言葉を失った。

 戦後、学校に寝泊まりしながら生き残った生徒たちと復旧作業を続けた。「戦中は何も教えることができなかった」と一場さん。「戦争はいけん。犠牲者の分までそう訴えたい」(和多正憲)

(2014年8月7日朝刊掲載)

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