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社説・コラム

『記者縦横』 胎内被爆者 言葉に重み

■報道部・和多正憲

 この夏、母親のおなかの中で原爆に遭った「胎内被爆者」と向き合った。最も若い被爆者たちに「あの日」の記憶はない。きのこ雲の下の光景は、母親から伝え聞いたものだったり、触れてはならない家族のタブーであったり…。胸を打つ母と子の物語に、新たなヒロシマの「戦後史」を見た気がした。

 広島市安佐南区の寺田美津枝さん(68)は、娘の顔を一度も見ぬまま逝った母福地トメ子さん(94)との思い出を語ってくれた。原爆被害で全盲となりながら、5人の子を育て上げたトメ子さん。幼いきょうだいは、マッサージ師となった母親の「目」となり、夜道を客の家まで送迎するなど懸命に支え合ったという。

 でも「自分が被爆者との実感がなかった」と寺田さんは明かす。原爆の日の平和記念式典も、どこか遠い存在だったと。

 その言葉は私の胸に深く突き刺さった。両親は戦後生まれ。被爆者の親族もいない。老いゆく被爆者を取材する機会も少なかった。これまで警察取材が長く、私も「被爆地の記者」という実感に乏しかった。

 母親の一周忌に合わせ、寺田さんは6日、式典に初めて参列した。「ようやく母の戦後が終わり、私の戦後が始まった」と寺田さん。記憶はなくとも、伝え聞いた話でも、彼女が語る言葉には母子2人の被爆者の人生の重みが宿る。それを書き残すのが、ヒロシマの記者が担う役割―。被爆70年の夏に向け、私の取材もまた始まる。

(2014年8月8日朝刊掲載)

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