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福山空襲きょう69年 悲劇2度 不戦の願い強く 被爆後に目撃 藤井さん

 広島で被爆し、2日後に福山が空襲で焼かれるのを目撃した人がいる。当時17歳だった福山市丸之内の藤井文夫さん(86)。戦争の残酷さを2度、目の当たりにし、「何という運命か」と思ったという。350人余りが犠牲になり、1万179戸が焼失した福山空襲から8日で69年。「戦争は無差別に人を殺す。その恐ろしさを若い人も知ってほしい」と願う。(小林可奈)

 暑い夜だった。藤井さんは実家があった福山市鞆町の港で、実家の船に乗って寝ていた。米軍の爆撃機が低空飛行で来た。「撃たれる」。船内に隠れ、汗びっしょりでじっとしていた。しばらくして市街地の空がぱーっと明るくなった。「福山が空襲に遭ようるわ」。ぼうぜんと見詰めていたが、疲れのためか眠ってしまった。

 広島師範学校(現広島大)の学生だった藤井さんは、原爆で破壊された広島を見たばかりだった。

 1945年8月6日朝、学徒動員で爆心地から約6キロの金輪島(広島市南区)にいた。爆風で飛んだガラスで目の上や耳を切った。救出活動で市街地に入った。顔の皮膚がずるりとむけている人や腕の皮膚が垂れ下がった人を見た。「水をください」。うめきや助けを求める声が耳に残る。地獄絵のようだった。

 翌7日、負傷した同郷の後輩を実家に送り届けるため、2人分のリュックを背負い、海田市駅(海田町)まで歩いた。満員電車で福山駅にたどり着いたのはその日の夜。母親たちは「よう生きて帰れた」と喜んでくれた。

 福山の市街地から離れた鞆町の実家は8日夜の空襲の被害は免れた。しかし福山城や福山駅は破壊され高台から見渡すと、所々に建物が残っているだけで焼け野原が広がっていた。「福山も焼けてしもうた」

 原爆と空襲の記憶が8月になるとよみがえる。「幸せな世の中を築くため、悲劇が忘れられないようにする義務が、私たちにはある」。強く思う。

(2014年8月8日朝刊掲載)

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