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社説・コラム

2014平和のかたち~ヒロシマから 中国残留孤児・中村美智子さん

ガザの子ども 姿重なる

 テレビでイスラエルと、パレスチナ自治区ガザの紛争のニュースを見ると、胸が痛む。

 破壊される街。飛び交う銃弾。多くの子どもたちが傷つき、そして泣いている。戦争に負け、逃げ惑った当時の私の姿が重なる。親を亡くしたあの子たちは、これから先どうなるのか。そう思うと、涙があふれる。

 中国・内モンゴル自治区から広島に来て18年。今も69年前のことが夢でよみがえる。真っ暗な闇に機銃掃射の破裂音がこだました。姉の手を握り締め、父の背を追い掛けた。死体を踏み越え、必死で歩いた。

 日本が戦争に負け、ソ連が攻めてくると聞いた。多くの日本人と逃げ惑う中、父とはぐれてしまった。必死に捜したが、「大きな声を出すな」と周囲の大人にたたかれた。父はソ連に連行されたと聞いた。その後、行方は分からない。

 姉と別々に現地の人に引き取られた。養父母は優しかったが、家は貧しかった。わずかな野菜を家族で分け合った。学校には通えず、山で牛や豚の世話をした。冬は厳しい寒さに凍えた。

 18歳で内モンゴルの人と結婚し、5人の子どもに恵まれた。43歳のとき、広島市に親戚がいることが分かった。残留孤児として帰国するか―。悩む私に夫は「日本語も一日に一言ずつ覚えれば大丈夫。私もついていくから」。そう背中を押してくれた。

 日本に戻っても苦労続きだった。長男は勤めていた会社が倒産し、中国に帰った。夫は3年前に他界した。それでも、同じく帰国した姉とはよく会っている。安心して穏やかに暮らせている。平和のありがたさを実感している。

 日中関係や国際情勢など難しいことはよく分からない。ただ、自分の歩んできた経験から、大勢の人間が殺される戦争は絶対にいけないと思う。

 原爆で多くが亡くなった広島の人も同じ気持ちではないか。毎晩、月を探しては、世界中で戦争がなくなるようにと祈っている。(聞き手は鈴中直美)

なかむら・みちこ
 広島県出身。4歳のとき、母を心臓病で失った。7歳だった1943年、パン職人だった父と姉の3人で中国へ。95年に永住帰国し、現在は広島市安佐北区で暮らす。79歳。

(2014年8月10日朝刊掲載9

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