×

未分類

被爆地から訴える「核兵器の非人道性」 金崎由美記者 報告

 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンターの金崎と申します。来年は広島と長崎が原爆被害を受けてから70年の節目を迎え、5年に1度の核拡散防止条約(NPT)の再検討会議が開かれます。70年という時間を私たちがあらためて見つめるきっかけにすべきでしょう。乏しい取材経験の中からではありますが、ここ数年間の潮流を踏まえつつ、いくつかの点について述べていきたいと思います。

 やはり、最近の注目すべき新たな動きの一つは「核兵器の非人道性」というキーワードを前面に出し、だから核兵器は廃絶しなければならない、と訴える機運でしょう。たった一発の爆弾がもたらした現実を知れば、非人道性自体はだれも否定できません。国連総会や、NPT再検討会議の前に開かれるNPT準備委員会などの場で、有志国による「共同声明」という形でも発信されています。

 昨年3月にノルウェーで、今年3月にはメキシコで国連加盟国の4分の3に当たる146カ国と各国のNGOや被爆者が参加し、この「核兵器の非人道性」をテーマに特別な国際会議が開かれました。被爆証言とともに、核兵器が再び使われた場合の人体への影響、深刻な気候変動と環境破壊を意味する「核の冬」といった仮説も交えながら「もし使われたら・・・」と考える場になったようです。

 一連の機運のそもそものきっかけは、2010年4月、前回のNPT再検討会議が始まる直前にスイスの赤十字国際委員会、ICRCの総裁が発表した声明でした。原爆が落とされた直後に広島に入って惨状を目撃し、原爆被害をいち早く伝えたICRC駐日代表のマルセル・ジュノー博士について言及した上で、「ICRCはいかなる核兵器の使用も国際人道法に合致すると見なすことはできない」と断言しています。私は発表の翌日にインターネットでこれを見つけ、かなり興奮したことを覚えています。

 「ヒロシマ・ナガサキの被爆実態を踏まえた議論をNPT再検討会議で行うよう求める動きが出てきてほしいなあ」と。

 まもなくNPT再検討会議がニューヨークの国連本部で始まったのですが、各国から来た市民団体関係者の間ではこの話で持ちきりでした。「国際人道法に基づいて活動するICRCがついに表舞台に出てきた。NPT再検討会議の議論に影響を与えるはずだ。対人地雷やクラスター弾の禁止条約に続こう」というものでした。

 後になって、ICRC総裁声明の作成時のキーパーソンに話を聞く機会がありました。声明の背景には、1996年にオランダ・ハーグの国際司法裁判所が「核兵器の使用と威嚇は国際法の諸原則、とくに人道法の原則に一般に違反する」と勧告的意見を出したことと、クラスター弾や対人地雷が非人道的な兵器だとして禁止条約の実現に至ったこと、昨年には通常兵器の移転に一定のルールを定めた「武器貿易条約」が総会で採択されたことに触れ、「次は核兵器の番、という判断だ」と述べていました。

 そして、4週間開かれた2010年のNPT再検討会議の最終日に、参加国の満場一致で採択された最終文書には、核兵器のいかなる使用も壊滅的な人道的影響を持つものであり、各国は国際人道法を常に遵守しなければならない、という一文が入りました。

 「核保有国が動かない限り何も変わらない」あるいは「市民団体や核兵器を持たない国の力では廃絶できない」という意見を広島でも、被爆者からも聞くことがあります。確かに現実はとてつもなく厳しい。とはいえ、最近の潮流は、核兵器をめぐる議論を「持たざる者」がリードするための鍵になるのではないでしょうか。核保有国は2010年のNPT再検討会議の最終日に、現在のようなうねりが起こるだろうと想定していたでしょうか。

 ただ、私自身、若干の違和感は持っています。「核兵器の非人道性」については、何十年にもわたって被爆者や市民、平和行政がときには途方に暮れながらも、「知ってほしい」と訴えてきたことです。また冷戦期には、全面核戦争になれば「核の冬」が地球にもたらされる、といった議論も主に欧米で活発に交わされました。

 こういった議論のどこが新しいのか、と正直なところ思いました。それに、「核兵器を新たな条約によって禁止せよ」という、クリアな主張が被爆地からつねにされてきたことを考えれば、「非人道的だ」とばかりこの期に及んで言っても、廃絶を求める理屈の立て方としては遠回りなんじゃないか、という印象も当初は受けました。

 核兵器は、生身の人間の尊厳を徹底的に破壊する兵器にほかなりません。しかし、世界では驚くほど理解されていません。だから「非人道的」という認識を浸透させるのが先だ、というのはあるでしょう。そこから何を目指すのか、というゴールを見失ってはなりません。

 今年から来年にかけて大切な時期になります。ノルウェー、メキシコで開かれた前述の国際会議は、12月に3回目がウィーンで予定されています。そこでの機運が、来年春の5年ぶりのNPT再検討会議へとつながっていき、被爆70年の広島と長崎に対する国際社会の関心にも関係してくるでしょう。

 注目したいのは、過去2回の国際会議に背を向けてきた核保有国、特に核大国であるアメリカの動向です。今年4月、日本とオーストラリアが主導する有志国の集まり、軍縮・不拡散イニシアチブ(NPDI)の外務大臣会合が広島で開かれた際、アメリカのガテマラー国務次官にインタビューする機会がありました。その中で国務次官は、オーストリアでの国際会議に初めて出席するかどうかは検討するとしました。国務次官は第五福竜丸が被災したビキニ事件から60年の節目となったこの3月にマーシャル諸島を訪れており、そこでも「核兵器の使用がもたらす非人道性」という考えは持っていると述べています。アメリカが出席に転じる可能性はあるということでしょう。

 ただ、アメリカの核政策が転換したわけではありません。非人道的な兵器だとは認めても、法的に自国の核に縛りをかけるような禁止条約には絶対反対であることに変わりありません。

 非力な国々と市民が騒いでいるだけだ、と背を向けているうちに国際世論が形成される事態になってきた。ならば、ますます外堀を埋められる前に中に入り込み、議論の進展にブレーキをかけよう、ということでしょう。同時に、アメリカ国内向けには、核軍縮に前向きな姿勢は国益にもかなうのだと保守派にアピールできる、という意図が透けて見えます。確かに、核保有国が腰を上げなければ核兵器は減りません。一方で、早い時期から核保有国を取り込もうとすることの危うさにも気をつけなければなりません。

 来年のNPT再検討会議で実際に話し合われるのは、核軍縮だけではありません。核不拡散、原子力の平和利用の促進、中東の核問題といった他の難題と密接に絡んでいます。5カ国だけに当面の核保有を認める条文があるNPT自体の不平等性に対する不信感も、影を落としています。再検討会議の最終日に採択する最終文書で、核軍縮措置にどこまで踏み込むかは、交渉の取引材料になるのが現実です。

 しかし、核兵器廃絶という被爆地の「筋論」は、国際社会の状況がどうであってもぶれずに訴えていくべきことに変わりはありません。

 ある意味で歯がゆくもありますが、最近の「非人道性」をめぐる機運は、ヨーロッパを中心に盛り上がったといえます。その分、被爆体験に裏打ちされた主張とはちょっとズレがあるな、と思うことが正直あります。たとえば、将来の核被害をシミュレーションする議論は、「原爆被害は将来も、世界のどこでも起きうる問題だ」と認識させる大きな訴求力があります。核被害の無差別性、甚大性から例外的に逃れることは、地球上の誰一人としてできないのです。一方、人間性を破壊し尽くされた一人一人の、一生の耐えがたき苦しみを感じ取るのは、それだけでは難しい。被爆地から発信すべき実体験、果たすべき役割はますます重いのです。

 被爆地というだけでなく「被爆国」としての発信も大切です。その点では、常に大きな課題を感じている人が少なくないのではないでしょうか。

 最初に述べた、核兵器の非人道性と不使用を訴える有志国による声明が2012年と2013年のNPT準備会合と国連総会第1委員会に計4回提出されました。日本は、核兵器の違法化、禁止条約の実現には一貫して後ろ向きです。4回目となった昨年秋、125の賛同国に名を連ねてやっと署名しましたが、日本にとっては「核兵器は非人道的、というまでは賛成」というのが精一杯でしょう。核兵器を違法な兵器にしようとするのは日本の安全保障政策との兼ね合いから賛同できない、というアメリカの「核の傘」を求め続けることによる限界があります。「ヒロシマとナガサキ、東京のどちらのスタンスが被爆地の声なのか」と海外から聞かれ続けることになります。

 海の向こうへの訴えだけでなく、自国の中で何を訴えるのかも、しっかり考えなくてはなりません。

年別アーカイブ