×

社説・コラム

『潮流』 「逃げた道」を追う

■論説委員・岩崎誠

 東京スカイツリーが目の前にそびえる。隅田川の言問橋たもとに立った。

 「あの日」の光景はなかなか想像しにくいが、焼けて黒ずんだままの欄干の柱が辛うじて記憶をとどめている。1945年3月10日の東京大空襲である。

 焼夷(しょうい)弾に追われた住民たち。川向こうに逃げれば助かるはずだと橋に殺到し、身動きが取れないところに猛火が襲う。橋の上や川の中は数え切れない遺体で埋め尽くされたと伝わる。

 そんな被害の実像を少しでもイメージできる研究者有志のプロジェクト「いのちの被災地図」を見た。ことし完成し、江東区の東京大空襲・戦災資料センターで公開されている。

 壁一面の地図では犠牲者1万人の名簿を丹念に分析し、当時の住所と死亡場所を線で結ぶ。あの日逃げた足取り、という見立てだ。おのずと実際に多くの遺体が確認された地点には、無数の線が集まっている。それが避難所とされていた国民学校であり、言問橋のような特定の橋なのだ。

 主任研究員の山本唯人さんに聞いた。1万人が最後まで懸命に生きようとした証し―。重い意味に加え、犠牲がなぜ広がったかの検証にもつながるという。言問橋でみれば、近くの軍用地に立ち入りできないために避難の流れが滞ったとの見方もできるそうだ。

 大きなヒントをもらった気がする。各地の市民団体を中心に続けられてきた空襲の実態調査は、このところ米軍側資料以外に新たな材料に乏しいからだ。呉、福山、岩国など中国地方の空襲も例外ではない。

 山本さんも「各地の調査に十分応用できる」と助言する。確かに手法自体はシンプルで、中高生でも取り組めよう。生存者や遺族の聞き取りから「逃げた道」を地図に落とし、当日の光景をよみがえらせる。終戦70年に向け、そんな平和学習もいいかもしれない。

(2014年8月16日朝刊掲載)

年別アーカイブ