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社説・コラム

『論』 占領下の原爆展 「学」の総力で核を問う

■論説副主幹・佐田尾信作

 19日夜からの記録的豪雨によって広島市安佐南区と安佐北区で大規模な土砂災害が相次いだ。犠牲者を悼むとともに、捜索が続く行方不明者の無事を祈りたい。

 69年前の被爆直後、枕崎台風が広島県を直撃した。2千人を超す犠牲者・行方不明者を出し、その中に京都大原爆災害研究調査団の11人も含まれる。当時、大野村(現廿日市市)にあった宿舎の陸軍病院で土石流に巻き込まれ、殉職した。9月17日のことである。

 この悲劇を乗り越えて調査を続けた京大の病理学者に天野重安がいた。「先生の原爆症の講義はいつも満員で、学生は席取りに急いだ。被爆資料の引き渡しを求める米陸軍軍医にも毅然(きぜん)と相対した」

 そう思い起こすのは京都市の医師川合一良(いちろう)(84)。この夏、23年ぶりに再刊された「医師たちのヒロシマ」(反核京都医師の会編)に、旧版にはない「京都大学総合原爆展」の手記を寄せた。この原爆展は占領下の1951年、京都駅前の百貨店で開かれ、10日間で3万人を集める。川合は主催した全学学生自治会の活動家だった。

 どんな時代だったのか。前年の50年に朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)していた。米大統領トルーマンが核兵器使用の可能性に触れ、国内では後の自衛隊―警察予備隊が発足する。一方、最初に原子兵器を使用する政府は戦争犯罪人だ、とするストックホルム・アピールが全世界に発表された年でもあった。

 だからこそ、だろう。一時は圧力がかかったにもかかわらず、190枚の原爆展パネルは、丸木位里・俊の「原爆の図」とともに「原爆が人体に及ぼす影響」に多くを割く。天野の知見に負う部分は大きい。生き残った者の責務が彼の背中を押したともいえよう。

 今となっては、おやっと思う展示もある。「新しきプロメテ(ウス)の火を原爆から解放して、平和と幸福のための炬火(きょか)とせよ」。パネル製作を陣頭指揮した工学部教員、西山夘三(うぞう)の一文だ。後に都市問題の専門家として名を成す人だが、原発につながる「平和利用」の発想だったのだろうか。

 川合の見方は少し違う。「原子力を人類がいかに制御するか―。当時の議論はそこまでで、原発は頭にない」。原爆より破壊的な水爆開発への危機感の表れだったのだろう、と振り返る。「原子力の国際管理への動き」と題した法学部生のパネルもその表れだ。49年に旧ソ連が核実験に成功し、核軍拡競争の時代が幕を開けていた。

 一方で占領下という制約は確かにあったのだろう。誰が原爆を投下したのか、という記述を控えたことがそうだ。パネルが全国各地からの要望で巡回展示されると、自治会活動家たちは現場で問い詰められた。元高校教員小畑哲雄(87)=京都府八幡市=は「横浜の造船所の労組で巡回した時、私もやっと口にできた。その一言を聞くため、毎日会場にやって来る労働者がいたほどだった」と言う。

 川合や小畑らは90年代に入って「『原爆展』掘り起こしの会」を発足させた。40年の歳月が流れていたが、資料収集や聞き取りを重ねて通信を発行。京都と広島では3回にわたって語る会を開いた。

 元高校教員宮川裕行(83)=広島市西区=も、自らの被爆体験を交えて証言した。原爆展の一環として「原爆体験記」を編集した文学青年だった。「占領下でも私は圧力を感じなかった。むしろ、語りたくない人に被爆手記を頼むことの方がつらかった」と思い出す。

 原爆展は宮川のような、活動家以外の学生も引きつけた。それぞれの学業を生かして幅広く参集し、リーダーたちでさえ全体像を長くつかめなかったという。川合と小畑は「ごっついことやったんやな、という実感がやっと湧いた」と笑う。ただ、集めた記録の集大成は道半ばで、焦りもある。

 天野は原爆展の後、「学生時代には、当然やるべきことはためらわずに実行するという好(よ)いところがある」と一文を記す。時代の求めに敏感に応じるのは、若者の特権であり使命だろう。占領期の京大原爆展は何を、どう伝えたのか。「平和」という言葉を何げなく使ってしまう、今の私たちの方が学ぶべきかもしれない。(文中敬称略)

(2014年8月20日朝刊掲載)

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