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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 増田暁美さん―広島市西区 どろどろと歩く姿に衝撃 

若い世代に託す。原爆のない世界つくって

 増田(旧姓部屋)暁美さん(74)にとって原爆は「終わったこと」でした。家族にも詳(くわ)しく話してこなかった被爆体験。しかし3年前、原爆の2文字を意識せざるを得なくなりました。甲状腺(こうじょうせん)機能低下症と診断(しんだん)されたのです。「何で今ごろ…」とショックを隠(かく)せず、「往復ビンタを食らったような」気持ちになりました。

 当時は5歳。あの日の朝、広島市三篠本町3丁目(爆心地から約2・3キロ、現西区)の自宅中庭で、いとこと遊んでいました。1歳の妹美智子(みちこ)ちゃんが泣きだしたので、台所に行き、トマトを半分に切って食べさせようとしたところで記憶(きおく)は途切(とぎ)れています。

 被爆の瞬間(しゅんかん)は覚えていません。母サカエさんから聞いた話では、崩(くず)れた家のはりと食器棚(だな)の間に無傷で立っていた、とのこと。家の裏から表に出ると、周りの家は倒(たお)れ、ずっと遠くまで見渡(みわた)すことができました。

 妹を背負って、祖母たちと近くの新庄之宮(しんじょうのみや)神社の防空壕(ごう)に歩いて避難(ひなん)しました。夕方になって、合流した母も一緒(いっしょ)に、安佐郡古市(ふるいち)町(現安佐南区)にあった国民学校へ向かいました。

 目にしたのは「どろどろと歩く」被爆者でした。見上げると、両手の先から皮膚(ひふ)が垂れ下がった人たち。「何があったかも分からず、むごい光景でした」  学校に着くと、堅(かた)パンをもらいました。1日飲まず食わずで過ごしていた増田さんにとって最高のごちそうでした。「今まで生きてきた中で一番おいしかった、って言える」と笑います。

 被爆後は、鼻血や下痢(げり)が続きました。さらに、被爆から1年以上たった1946年12月、原因不明の高熱で動けなくなりました。金だらいいっぱいに血を吐(は)き、医師からは「もう助からないだろう」と言われました。しかし、翌年3月には症状(しょうじょう)が落ち着き、4月からは学校に戻(もど)れました。

 ただ、小学3年まで毎晩のように悪夢にうなされました。被爆者の歩く姿が夢に出てくるのです。寝(ね)るのが怖(こわ)い日々。ある日、祖母と訪れた寺で、地獄(じごく)と極楽(ごくらく)を描いた紙芝居(かみしばい)を見ました。「あの紙芝居はうそだ。『あの日』こそが地獄だ」。そう思うことで、悪夢から解放されました。

 以来、「過去のこと」としまってきた体験。38歳で結婚(けっこん)し、翌年に出産した長女にも「人に言うべきことじゃない」と多くを語らずに過ごしてきました。

 ただ一つ、心を半世紀以上ひっかき続けたものがあります。それは、トマト。被爆直前、妹にあげようと半分に切ったのですが、実際は自分の方が少し大きく切っていました。「妹より多く食べようとしたから罰(ばち)が当たったんだ」。それから、トマトを見ると、あの日を思い出し、60歳ごろになるまで食べられませんでした。

 今回、話そうと決めたのは、若い世代に託(たく)したい思いがあったからです。「外国語を学び視野を広げ、外国の人にも伝えてほしい。原爆を持たない世界をつくって」。そう強く訴(うった)えます。(永里真弓)



◆私たち10代の感想

戦争の怖さ 共有したい

 増田さんが郊外(こうがい)へ逃げる時の地獄(じごく)のような光景は、小学3年になるまで夢として思い出され、いつもうなされていたそうです。寝(ね)ることさえ、ゆううつになるほど悲惨(ひさん)な状況だったと、あらためて分かりました。平和の大切さ、戦争の恐怖(きょうふ)を、国境を越(こ)えて共有できる日が来ればいいなと思います。(中3・溝上希)

自分なら耐えられない

 増田さんが被爆したのと同じ5歳のころ、私は幼稚園(ようちえん)で友達と遊んでいました。でも、吐血(とけつ)など病気で苦しみ学校に行けなかった話を聞いて、自分が同じようになったら恐怖(きょうふ)で耐(た)えられないのではないかと思いました。多くの子どもが、同じような被害(ひがい)に遭(あ)いました。原爆はなくさないといけません。(高1・岡田春海)

被爆の苦しみ 今も続く

 増田さんは被爆後、多くの症状(しょうじょう)に苦しんだそうです。にもかかわらず、病気について考えないようにしていると語る姿を見て、強く生きている人なのだと思いました。私には病気の過酷(かこく)さは想像できません。今も原爆の影響(えいきょう)で苦しんでいる人がたくさんいます。治療(ちりょう)が進歩しないといけないと、あらためて感じました。(高1・新本悠花)

(2014年8月25日朝刊掲載)

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