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2014ヒロシマ・ナガサキ=広島・平和記念式典 「核兵器なくしたい」 県遺族代表・大場さん参列 亡父と共に平和祈る

 広島市の平和記念公園で6日開かれた原爆死没者慰霊式・平和祈念式(平和記念式典)に、菊池市の主婦大場はつ子さん(58)が熊本県の遺族代表として初めて臨んだ。広島で被爆し、昨年87歳で他界した父・下田久義さんの写真を手に参列。「核兵器をなくさないといけない」と繰り返した父と共に、平和を祈った。

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 はつ子さんが子どものころ、親子で囲んだ食卓。好き嫌いをして食べ物を残すと、久義さんから「ぜいたくをするな」と戒められた。戦中の生活と重ね、決まって聞かされたのが広島での被爆体験だった。

 はつ子さんによると、久義さんは1944(昭和19)年に陸軍入り。原爆投下時は爆心地から南西約4キロの江波山[えばやま](広島市)の高射砲陣地にいた。警戒警報で向かった防空壕[ごう]にたどり着く直前、閃光[せんこう]が走り、ごう音が鳴り響いた。

 久義さんにけがはなく、原爆投下の翌7日から市街地で、遺体をトラックに積み込む作業に当たった。「真っ黒になった女性が『水をください』と足元にすがってきた。地獄絵図だった」。つらい表情で語った日の夜、久義さんはうなされていた。「父は、戦争は絶対にしてはいけない、といつも話していた。日本が再び戦争をする国になれば、悲しむに違いありません」

 戦後、久義さんは広島を何度か訪れたが、被爆した「高台」に足を運ぶことはなかった。「自分が任務に就いていた場所を見たい」。2年前の2012年5月、親子で江波山を再訪し、造船所やマンションが建ち並ぶ海岸沿いを見渡した。久義さんは「よくここまで復興した。平和を守らないといけない」と、はつ子さんに話したという。

 6日、久義さんの名も記された死没者名簿が原爆慰霊碑に納められた。「核兵器をなくさないといけない、が父の口癖だった。思いを引き継ぎたい」。はつ子さんは慰霊碑前の献花台で静かに手を合わせ、「一緒に平和を祈ろうね」と語り掛けた。(後藤仁孝)

(熊本日日新聞8月7日朝刊掲載)

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