×

未分類

平和を考える夏/とちぎから/悲惨さ多くの人に/69年消えぬ記憶と傷語る/ヒロシマ講座で被爆者寺前さん

 広島の被爆の実態や、核兵器廃絶と平和へのメッセージを学ぶ国内ジャーナリスト研修「ヒロシマ講座」の3日目が30日、広島市中区の広島国際会議場であり、15歳の時に爆心地から550メートルで被爆した広島市安佐南区、寺前妙子さん(84)が69年間消えない記憶と傷を語った。近年の風潮を危惧し「原爆さえなかったらと何度思ったか。核、原爆の恐ろしさを今のうちに1人でも多くの人に知ってほしい」と訴えた。

 「まず私の顔を見てください」。寺前さんが切り出した。左目は義眼。目元から鼻、あごにうっすらと傷が走る。「何とか命を落とした人の分までと頑張ってきました」。そう言って69年前を静かに語り始めた。

 1945年8月6日は、学徒動員のため広島中央電話局にいた。2階の廊下に整列していると、突然の強烈な光。気を取り戻すと、階段には人が重なるように倒れていた。「早く逃げないと」。夢中で廊下から飛び降り、炎に包まれる街を走った。次第に視界が狭くなった。担任の女性教諭と偶然出会い、命拾いした。

 5日後、父が収容先に迎えに来た。仲が良かった妹の死を聞き、愕然(がくぜん)とした。家に戻って包帯をとると、弟が声を張り上げた。「お姉ちゃんがお化けになっちゃった」。両親に何度も「鏡を見せて」と頼んだ。10月末ごろ、両親が留守の際に鏡を見つけ出した。思わず女性教諭を恨んだ。「同じ女性なら、先生は、なぜ私を助けたの」

 だが周囲の人々の死や原爆症の苦悩を見詰め続けるうち「生き残らせてもらったのだから、できることをしなければ」と思い直した。84年から修学旅行生に体験を伝え続けている。年々、関心を寄せる人が少なくなっているとも感じる。集団的自衛権の行使容認も気がかりだ。「あと何年生きられるか分からない。でも、もうちょっと頑張らないと」と前を見据えた。(荒井克己)

(下野新聞7月31日朝刊4面掲載)

年別アーカイブ