×

未分類

平和を考える夏 とちぎから/小山の木村さん 広島で参列/家族引き裂いた原爆/運命変えられた母の苦労に思い

 広島市中区の平和記念公園で6日朝に営まれた被爆69年の平和記念式典で、栃木と茨城の都道府県遺族代表の席には、幼少期に被爆した姉妹が並んで座った。戦争と原爆は家族を引き裂き、母子3人を貧困に突き落とした。「お母さん、ようやく2人で会いに来られたよ」。妹の小山市東城南4丁目、木村和子(きむらかずこ)さん(70)は雨の中、原爆慰霊碑の下で眠る母に語り掛け、核のない世界を願った。(荒井克己)

 「きょうは涙雨ね…」。29年前、74歳で他界した母親の三宅道子(みやけみちこ)さんの写真を懐に忍ばせて参列した和子さん。式典中は目を閉じて、元気だったころの母親の姿を思い浮かべていた。

 隣に座った茨城県鹿嶋市に住む姉の美子(よしこ)さん(72)は69年前のかすかな記憶をたどっていた。被爆時1歳だった和子さんは何も覚えていない。だが今も残る頭の傷痕は親族が教えてくれた69年前の惨禍を物語る。

 あの日は青く澄んだ空だった。1945年8月6日、広島市内の浄光寺。姉妹の親族10人ほどが身を寄せ、朝食をとっていた。午前8時15分の閃光(せんこう)と轟音(ごうおん)。和子さんは頭を負傷し、美子さんも上半身に大やけどを負った。爆心地から約2キロ離れた寺は全壊した。

 街は燃え上がり、皮膚がただれた死体が転がっていた。避難先の神社では、大きな穴で死体が次々と燃やされた。野戦病院で手当てを受けたが、2人の傷口からはうじ虫が湧いた。

 戦禍は家族の形も変えた。音楽教師だった父親は、戦死した兄の代わりに実家の農家を継ぐことに。良家に生まれた道子さんは手伝いができないとして、離縁させられた。資産も失い、母子3人で6畳1間にミカン箱の生活が始まった。

 美子さんはそろばん塾の手伝い、和子さんは小学生のころから子守や女中奉公で母親を支えた。もらい物の服で登校すると、いじめにも遭った。

 和子さんは18歳で美子さんの後を追って東京の新聞販売店に勤め始めた。78年に夫が独立し、小山市に移り住んだ。

 仕事を3年前にやめてから、戦争や原爆とあらためて向き合っている。「私たちの人生は大きく変えられた。母は望まぬ人生を送り、同じ女としてかわいそうだった」。自分も何らかの形で原爆がもたらすものを後世に伝えていけないかと考えている。

 約4万5千人が集まった式典会場を見回して言った。「これだけの人が集まり、平和への強い意志みたいなものを感じる。栃木でももっと原爆の悲惨さに現実味を持ってもらいたい」。原爆慰霊碑に手を合わせ、思いを強くした。

(下野新聞8月7日朝刊3面掲載)

年別アーカイブ