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平和を考える夏 とちぎから/ヒロシマ講座 69年目の現地ルポ/上/語り始めた被爆者たち/「ハチロク」の今/祈り深く 募る危機感

 雨音だけが響いていた真夜中の公園は一変した。

 広島市中区の平和記念公園。6日午前0時を回った直後。暗闇に浮かび上がる原爆慰霊碑を目指して、傘と花を手にした市民が続々と集まってきた。

 「この1年何事もなく、平和に過ごせた感謝を伝えました」。最初に手を合わせたのは近所に住む森永行範(もりながゆきのり)さん(42)。普段はDJをしている。「毎年来ています。広島に育ち、平和の教育を受けたので」。当然、という表情だった。

 すぐに数十人の人だかりができ、読経も始まった。「この人波は夜通し続きますよ」と森永さんが教えてくれた。

 「ハチロク」。広島で原爆や平和問題に携わる人は8月6日をこう呼ぶ。6日に向けて関連行事は増え続け、「平和」「ピース」という言葉があふれていく。

 平和の集いやメッセージ展はもちろん、ピースウォークにピースシネマ。ピースナイターでは、話題の「カープ女子」もイマジンを歌っていた。

 「この時期の雰囲気は栃木では考えられないでしょう」。1日、郊外に住む加藤征夫(かとうまさお)さん(76)を訪ねると、笑顔で迎えてくれた。広島栃木県人会の会長だ。

 宇都宮市出身の加藤さん。7歳の時には宇都宮大空襲も経験した。仕事で広島市に移り住んでからもう50年以上になる。

 だが原爆に対する市民感覚を尋ねると、冷静な答えが返ってきた。「普段は人によってかなり温度差がありますよ」

 広島でもほとんどの人は、原爆についてはあまり話したがらないという。「被爆者が身近に少なくなってきて、今後はどうなるのか」と懸念した。

 外からは高い意識に見えても、中では危機感が募っている。戦争体験の風化と平和意識の希薄化は広島でも異口同音だった。

 「語り始めたのは3年前です」。被爆体験の伝承について語ってくれた同市南区、新井俊一郎(あらいしゅんいちろう)さん(82)が打ち明けた。

 被爆したのは13歳の時。原爆投下直後は農村に動員されていたため助かった。小学校時代の同級生はほとんど死亡した。「生き残って申し訳ない」。負い目から口を閉ざしてきた。

 「自分が軍国少年だったころの日本に似てきてしまった」。被爆者の減少と、世の風向きの変化が決意させた。「伝承する最後のチャンス」。今、沈黙を守っていた被爆者たちが語り始めた。

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 広島の被爆の実態や、核兵器廃絶と平和への思いを学ぶため、広島市が7月28日から11日間実施した「ヒロシマ講座」に参加した。被爆から69年を迎えた広島の今、次世代に伝える取り組みを報告し、本県からどう向き合うべきか考える。(荒井克己)

(下野新聞8月12日朝刊3面掲載)

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