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連載・特集

「放影研60年」 第3部 被爆地とABCC <3>迎えのジープ

■記者 森田裕美

強引な採血 憤りの記憶

 原爆傷害調査委員会(ABCC)について被爆者や遺族が語るとき、ほぼ決まって出る言葉がある。「ジープ」。小型四輪駆動車が象徴する米国文化へのあこがれもあれば、むろん、戦勝国であり原爆投下国への反発や憎しみもこもる。

 「ジープには乗りたくなかった」。呉市の主婦久保美津子さん(78)にとっては、半ば強引にABCCに採血された忌まわしい記憶がよみがえる。

 16歳で被爆した。左腕に、弁当と教科書を抱えていた部分を残して大やけどを負った。

 2年後、就職した小さな新聞社に、開設して間もないABCCの職員がやって来た。「血をあげたくありません」。採血の「出頭命令」を断ると、日系人風の職員は片言の日本語で「そんなこと言っていいんですか」と詰問してきた。「軍法会議にかけますよ」との言葉も口にし、翌日に迎えに来ると念を押したという。

 あくる日、迎えの車には乗りたくなくて、久保さんは一人で、当時のABCCが間借りしていた広島赤十字病院(現中区の広島赤十字・原爆病院)に出掛けた。実際に採血されると、悔しさがこみあげたという。通訳に思いを訴えると「日本は負けたのだから仕方ない」と言われた。

 一昨年に72歳で亡くなった久保さんの弟のもとにも、迎えのジープはやってきた。

 思春期に被爆し、顔などに大やけどを負った。学校に来るジープに何度も連れて行かれたという。ある日、ABCCから戻った弟は「痛かった」と泣いた。「シャツを脱がすと、胸骨の辺りに畳針を刺したような痕があった」と久保さんは顔をしかめる。

 「多感な時期に好奇にさらされ、つらかったんでしょう。学校に行かなくなり、酒におぼれ、借金をし、手が付けられなくなった」

 ABCCは1951年、比治山(南区)への新築移転を完了した。久保さんはそのころ、比治山に爆薬を仕掛けて吹き飛ばす物騒な夢をよく見た、とも打ち明ける。

 「あの強引な調査への怒りが、被爆者と自覚した原点」。時がたち、被爆体験を人前で話せるようになった。被爆者のグループで体験記の編集作業などに加わるようになった。昨年には、自ら書きためてきた詩や体験記を一冊の本にした。ABCCへの怒りをつづった章は「私の血はやらない」と名付けた。

 久保さんの話を聞いていた夫の浩之さん(75)が言葉を継ぐ。「心まで焼かれた被爆者を、さらに調査するなんて。人間性を放棄しないとできない」

 初期の強引な調査が批判されたABCCは、被爆者を「協力者」と呼んでいた。

(2007年6月8日朝刊掲載)

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