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連載・特集

「放影研60年」 第3部 被爆地とABCC <5>板挟み

■記者 森田裕美

連絡員 反発軽減に苦心

 放射線影響研究所(広島市南区)の前身、原爆傷害調査委員会(ABCC)の職員に「連絡員」と呼ばれた人たちがいた。調査対象となった被爆者を一軒一軒訪ね、検診の了解を取り、車で送迎する。「実験台にするのか」と拒否されることも多く、風当たりの強い仕事だった。

 「後ろめたい仕事はしたくなかった」。1955年にABCCに入り、その連絡員を務めた山内幹子さん(76)=広島市中区=は凛(りん)とした表情で語った。検査が被爆者に不安を与えないか、痛みがないかを確認するため、まず自分で検査を受けたという。あの廃虚の町を歩いた入市被爆者の一人として、被爆者の心情はよく分かったから。

 それでも「家に入れてもらえないのは当たり前。玄関先で、殺してやるぞと出刃包丁を持って追いかけられたこともある」と苦笑する。

 同じ時期にABCCで看護師を務めた南京子さん(75)=東区=も当時の複雑な胸の内を明かす。「人を助ける仕事を夢見てナースになったから、『治療しない』と批判される研究所での仕事には矛盾も感じた」

 ABCCの被爆者との接し方に、ふに落ちない点も感じた。日本人医師が被爆者を診た後、必ず米国人医師が再度の診察をしたという。医療水準の違いのためかもしれないが、「日本」が信用されていない気がした。米国人医師の中には優しい人もいたが、事務的に被爆者に接する医師もいたから、なおさらだった。

 だから南さんは、検査の待ち時間に、不愉快な思いをしなかったか、被爆者の話に耳を傾けるよう心掛けたという。自然と、あの日の話になることも度々だった。「雷が鳴ると閃光(せんこう)を思い出すと言って、研究所の倉庫に隠れる人もいました」

 そんな経験を原点に、南さんはその後、被爆者から証言を聞いたり、手記をまとめたりする市民活動に携わっている。

 1ドルが360円の固定相場の時代だったこともあり、ABCCでの待遇は悪くなかった。働く女性は少ない時代でもあった。被爆者からの反発に加え、周囲からうらやましがられることもしばしばだった。

 しかし、山内さんや南さんたちの努力の結果なのだろう。米国や日本の元ABCC研究員は「被爆者の反発は感じなかった。協力的だった」と振り返る人が多い。

 「でもそりゃあ、板挟みの連続でしたよ」。2人は顔を見合わせる。

 「被爆者にとっては、検診に協力したからといって、原爆で失ったものが元に戻るわけではない。直接の見返りは何もない」と山内さん。

 南さんがうなずく。「だからこそ、長い歴史で得た成果をオープンにし、二度と核兵器を使わない、戦争をしない教訓にしてほしい」

 日米のはざまで揺れた経験が、平和を求める2人の気持ちをより強くしている。=第3部おわり

(2007年6月10日朝刊掲載)

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