×

社説・コラム

『言』 人道支援30年 「相互扶助」の精神さらに

◆菅波茂・AMDAグループ代表

 岡山市を拠点に、国内外の災害や紛争の地に医療従事者らを派遣してきた国際援助組織のAMDA(アムダ)が8月で設立から30周年を迎えた。65カ国で人道支援のプログラムを重ね、30の海外支部がある。創設者でAMDAグループ代表の菅波茂さん(67)はことし、マレーシアのクアラルンプールにも拠点を置き、自ら居を移して新たな一歩を踏み出した。一時帰国の折に今後の方向性を聞いた。(論説委員・岩崎誠、写真も)

  ―ソマリアやアフガンの難民支援にスマトラ、ハイチなど災害の救援。活動歴を見れば「救える命があればどこへでも」のスローガンそのものですね。
 振り返れば高校2年の時、一枚の戦争の写真を見て思ったことが原点です。南方戦線で浅瀬に顔を沈める若い日本兵。なぜこんな死を迎えたのか。考えの違う人たちとどうすれば平和を構築できるか、と。AMDAが掲げるのも宗教や民族を超えた尊敬と信頼による多様性の共存です。とにかく何かあれば行く。多国籍医師団を中心に理念を具体化し、ここまでくるのに30年かかりました。

 ―マレーシアに新たに地域統括事務所を設けた目的は。
 私たちの基本は上から目線で助けるのではなく苦労を共にしようというパートナーシップ。人の役に立つとともに、援助される側の誇りも忘れまい、と。「相互扶助」と呼ぶ、こうした考え方が本物かどうか検証し、世界に発信する場としてイスラムや華僑、インド系といった多様性を持つ国を選びました。AMDAの中核である認定NPO法人の理事長職も譲り、今は現地を拠点にしたネットワークづくりに当たっています。

―岡山では限界なのですか。
 後方支援の拠点としての岡山の役割は変わりません。円から二つの中心を持つ「楕円(だえん)」に変わるイメージでしょうか。

 ―活動の中身もこれまで以上に拡大するわけですね。
 昨年からアジアの13の国・地域と災害医療のネットワークをつくり、11月のフィリピン巨大台風の際にも役立ちました。今後は平和構築や生活向上、教育と健康の分野にも広げます。さらに来年からはAMDAの支部を拠点として、日本の若者に多様な文化を学んでもらう人材育成のプログラムも実行に移したい。そしてもう一つ重要なのが、来る南海トラフ巨大地震への対応です。

 ―どう関係するのですか。
 日本列島の被害想定を考えれば海外からの救援は欠かせません。例えば在日外国人のために母国からの医療チームも必要でしょう。そうした事態に向けた連携を整えておくのです。いざというときは日本を助けてほしいと頭を下げれば、これまで援助されてきたアジアの人たちの誇りが生まれてくる。これこそ相互扶助の精神なのです。

―東日本大震災を通じて問われたことでもあります。
 3・11ではさまざまな支援活動を継続中ですが、大切な一つが「被災地間交流」を目的に、昨年スタートした復興グルメ大会です。岡山からボランティアのバスも出して支えています。福島県南相馬市で開いた時は8千人以上集まりました。その縁で風評被害に悩む南相馬のコメを食べる運動も始めたんです。こうした活動がAMDAの新たなコンセプトといえます。

 ―単なる医療支援から大きく輪が広がるわけですね。
 私たちは「市民参加型人道支援外交」を提唱し、例えばハイチ大地震では日本の子どもたちが赴いてサッカー交流で被災者を応援する事業もしています。そうした中でもっと考えたいのが広島との連携ですね。これまでも大震災やフィリピン台風では県内の高校生たちが支援活動に加わってくれました。来年は終戦70年です。県や広島市がAMDAと協力し、アジア各地で戦争や災害で命を落とした人たちの合同慰霊祭を呼び掛けてはどうでしょう。

 ―その狙いは何ですか。
 私たちも以前から各地で「魂と医療のプログラム」を重ねています。医療支援とともに戦争犠牲者の慰霊祭を宗教の枠を超えて営み、信頼を深めてきました。人類史上例のない惨禍を経験したヒロシマが、アジアの人たちの悲しみを決して忘れていないというメッセージを送れば大きな力になるはずです。

すがなみ・しげる
 福山市神辺町生まれ。誠之館高を経て77年に岡山大大学院医学研究科修了。81年岡山市に内科医院を開業した。医学生時代にアジアを回った経験も踏まえて84年にアジア医師連絡協議会(現AMDA)を設立。03年吉川英治文化賞。10年に医療法人経営から退いて活動に専念し、現在は関連の5団体を統括するAMDAグループ代表としてマレーシアに居住。

(2014年9月10日朝刊掲載)

年別アーカイブ