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社説・コラム

『論』 自治体「消滅」の予測 浮足立ってはいないか

■論説委員・石丸賢

 かつて「限界集落」という見方が打ち出された時、「勝手に烙印(らくいん)を押してもらっては困る」といった当事者の批判がこだまとなって各地に広がった。

 今度はさて、どうだろう。

 ことし5月、民間シンクタンクの日本創成会議(座長・増田寛也元総務相)が公にしたリストの衝撃が尾を引いている。人口減で2040年までに20、30代の女性が半減し「消滅可能性がある」自治体として、全国のほぼ半数に当たる896市町村を名指しした。

 「宣告」を受けた市町村はしかし、総反撃に出るどころか、その多くはどこか浮足立っているように映る。こうした負のリストに載ること自体がマイナスイメージにつながり、首長や議会は打開策を住民からただされる。来春の統一地方選を控え、戦々恐々としているのだろうか。

 不思議なのはリスト公表の翌月にはもう、政府が地方創生本部(まち・ひと・しごと創生本部と改称)の新設を明らかにしたことだ。創成と創生。読み仮名までつじつまが合っているのは偶然なのだろうか。根回しの上、タイミングを見計らったようにもみえる。

 全国知事会も拍子を合わせ、「日本全体の衰退に向けた壮大なシナリオができあがりつつある」と少子化非常事態宣言を出した。

 そもそも自治体の消滅は、合併という形で繰り返されてきた。平成の大合併では、姿形をなくした町村が全国で1600にも及ぶ。手を貸したのは国であり、都道府県ではなかったか。そんな反省など、どこ吹く風といった様子は合点がいかない。

 もっとも、過疎だ、少子高齢化だとひとくくりに語られがちな課題を深掘りし、政策に結び付けようとする姿勢ならば好ましい。地域の側が望んでいる方向でもあるに違いない。

 例えば、独居老人の暮らしにどれほどの手が差し伸べられているか。車で片道どれくらいの時間をかけ、近在の親類縁者が介護や農地の守りに通ってきているのか。隣近所は―。創生本部がテーマとする「まち」も「ひと」も、住民票ベースからは見えないネットワークという地域資源を視野に置くものであってほしい。

 単に将来推計人口のデータを基にした予測や政策提案なら、霞が関にいてもできる。

 その点、創生本部の発足式で、安倍晋三首相が事務局職員に諭した訓示は目を引いた。「大切なことは現場主義」「霞が関の常識は忘れて、地域にどんどん出てほしい」。その言やよし。要は行動に移せるかどうかである。

 自治官僚の強烈なプライドを隠さなかった長野士郎元岡山県知事から、その「三惚(ぼ)れ主義」を聞いたことがある。地方、仕事、妻(夫)の三つにほれるのは、省益に閉じこもらぬための戒めでもあったという。省庁再編の波間に消えた旧自治省の伝統を、今こそ創生本部は取り戻すべきだろう。

 人の減った地域をどうやって元気にするか―。創生本部が抱える難題を、極端な形で突き付けられているケースがある。原発事故で古里を追われた福島県双葉郡の町村である。きょう、東日本大震災から3年半を迎える。

 復興庁は先月下旬、帰還困難区域が広がる郡内の大熊、双葉両町に向け、「ふるさと復興構想」を示した。両町で用地を取得し、除染廃棄物を取り置く中間貯蔵施設を造る代わり、国の責任や役割をまとめたものである。しかし、インフラ整備の輪郭や予算は定かとはいえず、帰郷の希望を抱かせるには程遠かったようだ。

 若者の流出、人口減、高齢化…。「時計の針が一気に進んだ」という被災地の人口変動は、「消滅」自治体の境遇とも重なる。人口減時代のまちづくりで近頃よく聞く「コンパクトな拠点」「集約型の環境づくり」といったキーワードも復興構想に見える。是非はともかく、その延長上に創生ビジョンも描かれていくのだろう。

 「福島の復興なくして、日本の再生なし」。安倍首相が繰り返してきた通りなら、福島の行く末からも地方創生の針路が占えよう。じっくり見定める必要がある。

(2014年9月11日朝刊掲載)

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