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社説・コラム

私の学び 広島市JICAデスク・浜長真紀さん 

原爆 自分の言葉で伝達

 アフリカ中部にあるルワンダで8月、現地の青年海外協力隊員たちと一緒に原爆展を開いた。被害や復興を紹介するポスター展示や折り鶴作りに加え、インターネットのテレビ電話を通して、広島の被爆者とルワンダ大虐殺の生存者が体験を語り合った。

 現地は、20年前に起きた大虐殺の衝撃から、再建に向けて歩もうとしている。「ヒロシマ、ナガサキは自分たちの見本」。原爆展の会場を訪れた人の感想が印象的だった。

 国際協力機構(JICA)と地域とのパイプ役として、活動を知ってもらう講演や国際理解を進めるワークショップを重ねるのが今の仕事。世界各国の協力隊員とやりとりをしながら、被爆地にある窓口として原爆展のとりまとめも担っている。原爆被害だけではなく、復興した今の街や人の姿も伝え、平和を考える機会にしてほしいと願う。

 スポーツ少女だった。賀茂高(東広島市)時代はソフトボールに明け暮れ、進学した東京女子体育大(東京都国立市)では4年間、部活で軟式野球をやり抜いた。

 部活を引退すると、心が空っぽになった。沖縄に「自分探し」の旅へ。この時会った女性の言葉が忘れられない。「迷った時は自分がドキドキ、ワクワクする道を選ぶ」。就職の内定を得たが、本当にやりたいことではないと気付いた。

 発展途上国に行きたいという目標は、中学生の時に読んだ協力隊に関する本をきっかけに持ち続けてきた。大学4年の時に協力隊の試験に合格し、夢をつかんだ。

 派遣された中米のベリーズでは小学生に体育を教える傍ら、休日には各地で原爆展を開いた。延べ11回。被爆者は年々亡くなる。何かしないとという危機感が背中を押した。しかし、当時は原爆に関する知識が足りなかった。聞いている人の生活や生き方に結びつけて伝えなければ意味がない、と振り返って思う。

 途上国では今も貧困や紛争で苦しむ人が多い。そんな国の歴史や文化を知った上で説明しないと、原爆の悲劇は単なる史実としてしか受け止めてもらえない。4月からは原爆資料館(広島市中区)のピースボランティアにもなり、知識を深めている。相手国の事情を理解し、自分の言葉でヒロシマ、ナガサキを伝えたい。スポーツで鍛えた精神力と体で、壁に立ち向かい続ける。(聞き手は山本祐司)

はまなが・まき
 東広島市出身。2007年、東京女子体育大卒業。08~10年、青年海外協力隊員として中米ベリーズで小学生に体育を教える。中学校講師を経て12年4月から現職。青年海外協力隊員たちが開催する原爆展のサポートや、学校などで国際理解を深める講演を続ける。

(2014年9月22日朝刊掲載)

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